発掘調査で見つかった池田輝政時代の石垣を指さす岐阜市職員=22日午後、岐阜市の金華山
伊奈波神社蔵の「稲葉城趾之図」に描かれた岐阜城天守閣周辺の石垣(岐阜市提供)。赤丸は今回見つかった部分

 岐阜市は22日、岐阜城の天守閣東側で、織田信長以後に城主になった池田輝政時代の石垣が見つかったと発表した。発掘調査を指導する史跡岐阜城跡整備委員会によると、豊臣秀吉の家臣・輝政による天守閣周辺の石垣が明らかになったのは初めてで、「岐阜城が、信長から秀吉の家臣の城へと変わったことを民衆に知らしめたことを裏付ける史料」としている。

 市文化財保護課によると、江戸時代前半の岐阜城を描いた絵図「稲葉城趾之図」(伊奈波神社蔵)にある石垣の場所と合致し、大正時代の写真に写る取り壊される前の石垣とも同じ位置関係にあった。長短の石を交互に積む「算木(さんぎ)積み」の傾向があり、周辺からも輝政時代と思われる瓦も出土したことから、輝政が改修した時に造った石垣であると判断した。

 市文化財保護課主幹の内堀信雄さん(62)は「長らく推測するしかなかった石垣の時代を、輝政によるものと確定できた意義は大きい」と語った。日本城郭史に詳しい滋賀県立大の中井均名誉教授(史跡岐阜城跡整備委員長)は「斎藤道三、信長に加え、輝政すなわち秀吉の岐阜城という新たな姿が明らかになった」と評価した。

 現場は足場が悪く、危険であるため公開していない。来年1月15日にオンラインで調査成果報告会を開催する。モニターツアー「戦国ドラまちEXPO」のホームページで23日から申し込みできる。

【池田輝政】 1564年、織田信長の家臣、恒興(つねおき)の次男に生まれる。84年の小牧・長久手の戦いで、恒興と兄元助が戦死すると、池田家の跡継ぎになり、翌85年に岐阜城主となる。90年、徳川家康の関東移封に伴い、三河国(現愛知県)の吉田城に移った。1600年の関ケ原の戦いでは東軍につき、前哨戦で岐阜城を攻め落とす功績を挙げた。合戦後、播磨国(現兵庫県)の姫路城主となった。