プロ野球中日などで活躍した名投手河村保彦さんを擁し、1958年に初出場で春夏連続出場した多治見工。選抜初戦の2回戦でトリプルプレーも成し遂げた遊撃手で主軸の纐纈忍さん(83)に秘話を聞いた。
―どんなチームですか。
纐纈 自分が1年生の時の3年生は、中京商(愛知、現中京大中京)の監督だった牧野祐平さんを招へいし、3年計画の代。でも、その年は春夏とも甲子園準優勝する岐阜商(現県岐阜商)の清沢忠彦さんがいて、勝てなかった。夏に負けた後、同学年に河村がいて、ほかにもいい選手がいたので、1年主体で新チームが立ち上がった。その年はだめだったが、河村がいれば1点取れば勝てるという自信はあった。2年の秋に県大会で優勝し、東海大会1回戦で享栄商(愛知、現享栄)に惜敗したが、選抜に選ばれた。プロ野球で200勝投手(254勝)となった5年先輩の梶本隆夫さん(元阪急=現オリックス=)でさえ、行けなかった甲子園。全員が感激した。
―エースの河村さんはどんな投手でしたが。
纐纈 フォームがすごくきれいで、コントロールがよかった。梶本さんは球が重く、ずしんという感じだったが、河村は軽くてホップする感じだった。自分は中学で野球していたが、誘われたわけではなく、機械科に入りたくて入学した。1年生はノックを受けないのを知らなくて、三塁に入ってしまったが監督に認められた。蛭川村(現中津川市)出身だったので、下宿を探すと、河村にうちにこいと誘われ、3年間世話になった。牧野監督はとにかく走らせる人で、河村が夏休み毎日、土岐市の寺まで走らされていたので、一緒に走った。自分も鍛えられたが、河村にとっても下半身が鍛えられたのだと思う。
―選抜は初戦の2回戦で熊本工に0―1で惜敗。
纐纈 相手エースの成田秀秋(元中日)のシュートがすごくて、当時は事前のデータなんかなかったので手こずり、...