名将村瀬保夫監督の就任で始まった1964年、岐阜商(現県岐阜商)大逆襲の夏。前回に続き、主将で元同高監督の小川信幸さん(77)に秘話を聞いた。

 2024年は、高校野球の聖地・甲子園球場が開場して100周年を迎えます。岐阜新聞電子版で毎週木曜日に各年の感動を当時の紙面と主力選手インタビューで振り返る「甲子園100年ぎふ」を連載中。そのインタビュー記事をWebで紹介します。電子版はこちらから。「媒体」で「ぎふ高校野球」を選択してください。
岐阜県高野連会長時代に岐阜大会開会式であいさつする小川信幸さん=2006年7月、長良川球場
 小川信幸(おがわ・のぶゆき)1946年岐阜市生まれ。1年の夏に続き、3年の夏、主将として甲子園に出場。二塁手。愛知学院大を経て、新任で母校の県岐阜商定時制に赴任。コーチを経て、2年目に全日制に移り、監督就任。岐阜県の監督として最多タイの11度、甲子園に導く。部長も含めると在籍24年で甲子園出場14度。同校校長、岐阜県高野連会長も歴任。退職後は朝日大野球部長を務め、現在は同大学長顧問。

 ―甲子園は1年生の夏も出場。

 小川 当時甲子園のベンチ入りは14人で、背番号は14。準々決勝で史上初の春夏連覇する作新学院(栃木)に0―9で大量リードされ、九回の先頭に代打出場した。当時、練習は竹バットで、試合で先輩たちは木製バットを使ったが1年は10年早いってわけです。竹なので詰まってセカンド後方に落ちてヒットになったが、木製ならアウトだった。次から連続三振したが、連打でホームインした。忘れられない竹バットの思い出。

 ―主将として臨んだ3年夏の初戦は米子南(鳥取)に4―1。

 小川 サードゴロでゲッツーを取ろうと、三塁からの送球を二塁で受ける時、一塁走者のスライディングが左ひざに入った。立ち上がれないほど痛く、...