運送会社のかじを取り、順調に礎を築いてきた創業社長の初代山口軍治だったが、1958年3月に病気で急逝した。もともと体は丈夫ではないとされたが、世を去るにはまだ若い53歳だった。

 初代軍治の後継として白羽の矢が立ったのが、山口の家で養子として育ち、父が率いる岐阜合同産業に入社した二代目山口軍治(幼名久男)。就任時、29歳の若さだった。

 初代社長が急逝し、名前を襲名して第2代社長に就任した二代目山口軍治

 久男は山県郡山県村北野(岐阜市北野)の農家に生まれた。10人きょうだいの4男。初代軍治とは親戚関係にあり、幼少の頃に農繁期には初代の家に預けられた。「親戚で気心も知れていて互いに願ったりかなったり」と、3歳の時に子宝がなかった初代の家(岐阜市金竜町)の養子になった。

 久男は15歳の頃、冬休みに実家に帰った時のことをよく覚えていた。正月を実家で過ごそうと大みそかの夕方、玄関の戸を開けた途端、「なにしにやってきた。ここはお前の家ではない。すぐに金竜町に帰れ」と実父の大声が響いた。尋常でない様子に圧倒され、黙って膝まである雪道を引き返し、真夜中に金竜町に着いた。年を経るに連れて、「もしあの時に実父の“愛の声”がなかったら今の自分はなかっただろう。父親の深い思慮に頭が下がる」と、本紙の寄稿文で思いをつづっている。

 久男は、初代軍治の家業の運送店の仕事を間近に見て旧制市立岐阜商業高校(県立岐阜商業高校)へ進んだが、戦争にほんろうされ、学徒動員で各務原市の川崎航空機で飛行機を造った。動乱の中、青春を過ごした戦中派で、卒業後は岐阜合同産業で会社員人生を歩んでいた。10年ほどがたち商号変更した岐阜トラック運輸で計算課長をしていた時、先代の思いもよらぬ急逝で、二代目山口軍治を襲名して社長を継いだ。

 岐阜トラック運輸時代の社屋とトラック=岐阜市鶴田町

 会社経営は分からないことばかりだった。そこで「分からないことは聞く」と胸に刻み、岐阜合同産業発足時に一緒になった運送店の店主らを頼った。「我以外皆師なり」を座右の銘とする二代目軍治は、会社の成り立ちからも一体経営を進め、後に「お取引先にもご心配をおかけしたが、役職員一同が一致団結してこの難局を乗り切った」と振り返っている。

 社外では「日本のトラック王」と称された西濃運輸(大垣市)創業者の田口利八から経営の薫陶を受けた。きっかけは県トラック協会副会長だった初代軍治の社葬の際に県ト協会長として弔辞を依頼し、参列していた利八から掛けられた言葉だった。「大変だろう。いつでも相談に来なさい」。ただ、すぐに相談に行ったわけではなかった。「山口運送店時代からの役員が健在で、先代の遺志を私に継がせようと周りから支えてくれたので不安はなかった」といい、周囲からは「3年ぐらいはじっくり勉強してください」と励まされていた。

 その後、利八の言葉を頼りに相談に行き、労使協調と計数管理の徹底を教わった。「労使が一体となって企業を発展するように経営者が持っていけと言われ、心掛けた。一貫して礼節を重んじることで会社の秩序が保たれる。そうすれば効率が上がるし、業績も上がり、社員の生活向上につながる。これを田口さんから学びました」と、利八の死後に述懐している。「困ったり、判断できない時、相談に行くと親身になって力になってくださった。ゼロから出発した私には大きな支えだった」。晩年に本紙インタビューで利八の名前を挙げ、感謝の思いを吐露している。

 エスラインの姿勢(社風)として本社に掲示されている「みどりの和」

 就任の翌年から年度目標を設定し、最初の目標は「責任完遂」とし、その後も「計画輸送」「創造する経営」と毎年発表して、社員を引っ張った。設立20周年の67年には社是を「和」と決め、労使一体の経営を推進。社内の壁には、「和」を中心に据え、周りにタイヤとホイールを表す円を描いた図を掲げた。外の円には「常に革新を図り業界を一歩リードする」、内側には「日本一の輸送技術」、さらに内側には「創意、安全」などと記し、会社の姿勢(社風)「みどりの和」として社員に意識付けを促した。

 岐阜トラック運輸時代の社内報「緑風」。社長の二代目山口軍治は年度目標や経営方針を書き社員を鼓舞した

 59年には社内報「緑風」を創刊した。会社の方針を伝える手段に活用し、社会情勢を踏まえて自身の経営の考えを書き、社業に尽くすよう鼓舞した。(敬称略)