「那比村藤吉の墓」―。深い谷筋に沿って集落が点在する岐阜県郡上市八幡町の那比地区。国道256号沿い、立派な台座の上に古びた墓碑が立つ。その中央には、真っ二つに割られたような亀裂が入っている。
看板に「郡上一揆義民・駕籠訴(かごそ)人」の文言が添えられている。郡上一揆とは約270年前、江戸中期に郡上藩で起こった農民による大規模一揆。藩主の金森氏の激しい年貢の取り立てに、農民たちは傘連判状を作って結束し、抵抗。各村の代表者が江戸に向かい、幕府への直訴を試みた。
「藤吉は郡上一揆の『三羽烏(がらす)』とも言われる中心人物」だと、顕彰団体「郡上一揆の会」前会長の和田昌三さん(92)が解説する。藤吉は1755年11月、前谷村(同市白鳥町)の定次郎や切立村(同市高鷲町)の喜四郎らと、江戸で老中酒井忠寄の行列への駕籠訴を決行。のちに死罪となった。
多数の犠牲者を出しながらも「藩主金森氏の改易に追い込んだのは当時としては異例の結果」と、和田さんは農民らの決死の覚悟に思いを寄せる。故郷の民のために命を懸けた藤吉らは、後世に「義民」とたたえられ、墓や顕彰碑が市内各地につくられた。
“英雄”であるはずの藤吉の墓はかつて、実際に割られたようだ。なぜか。那比在住で郷土史に詳しい地名研究家・井藤一樹さん(81)に地元に残る伝承を聞いた。
当初、藤吉の墓は那比村の小谷通(おがいづ)の山上にひっそりと建てられた。ところが数年後に「山から引きずり下ろされ、二つに割られて那比川などに投げ捨てられた。金森氏の残党による逆恨みだと伝わる」という。それから100年以上たった明治初期に下部が発見され、さらに明治中期に上部が小谷通から3キロほど下流の川底から見つかった。
長い時を経て再び一つになった墓石。流水にさらされていた上部は、表面に刻まれた法名がすり減って読みにくくなっている。遠目からでもはっきり分かる断裂痕は、一揆の激しいエネルギーを物語るかのよう。墓石の傍らには真新しいシキビが供えられており、大切に守ってきた那比の人たちの心が伝わった。
アクセス:郡上市役所から車で約20分 国道256号沿い
概要:墓石、高さ約1メートル 立派な台座の上に安置
※名前、年代、場所などは諸説あります。