初代山口軍治が会社の礎を築いたのを受け、二代目山口軍治は県内外の運送会社を系列化して事業規模を拡大、発展させていった。

 二代目軍治は、周囲に自らを「商売人」と話していた。次第に「山口のところなら」と頼られるようになり、「一緒にやりたい」という運送会社を仲間にしていった。業務提携を結んで資本提携へと進め、1958年に那加トラック運輸(現エスライン各務原)、61年には船津運輸(現エスラインヒダ)が加わった。

 売り上げが10億円を突破し、社員が千人を超えていた64年には、羽島トラック(現エスライン羽島)、66年に岐北トラック(現エスラインミノ)と郡上トラック(現エスライン郡上)と、県内の同業を相次いで系列化していった。

 従業員と共に安全サインの唱和をする二代目山口軍治(左)

 系列化による事業の拡大には困難もあった。後の本紙インタビューで、一番苦しかった案件として鹿児島市の阪九運送(現エスライン九州)を挙げている。69年に系列化したが、その過程では経営を立て直すために多くの人と資金をつぎ込み、軍治自身も鹿児島へ乗り込んだ。誠意と努力が実を結び、「当初予定よりも1年間早く黒字化できた」と振り返っている。

 車両が増えていく中でトラックの交通事故は、頭の痛い課題の一つだった。68年に労使一体となって月間事故ゼロ運動を展開した。出発前の安全サインとして、手の指でONE(法定速度を守る)、TWO(車間距離を保つ)、THREE(追い越しをしない)、ZERO(事故はゼロ)を意味する形をつくり、意識の浸透に努めた。サインのポスターを掲示するだけでなく、軍治が先頭に立って唱和して安全運転を誓った。事故防止の研修会、神社での安全祈願に、運転手の家族も巻き込んだ出発の見送りと、事故を撲滅するため手を尽くした。

 指で事故ゼロを啓発する安全サインのポスター

 事業が拡大し、社員が増えるに連れて、岐阜市鶴田町の本社は手狭になっていた。トラックの大型化も進んでおり、軍治は移転先探しに奔走した。

 たどり着いたのは、現在本社がある羽島郡岐南町伏屋(現在は岐南町平成)だった。国道21号と国道22号・156号が交差する交通の要衝で、「どこへ行くにもアクセスが良い」と判断し、71年に移転した。移転前の5倍ほどの約5万9930平方メートルの敷地を確保し、本社ビル、ターミナルなどを建設した。竣工(しゅんこう)式には経営の薫陶を受けた西濃運輸社長の田口利八らを招き、社業の発展を誓った。

 手狭となり移転してきたエスラインギフの本社。その後、トラックターミナルや倉庫が整備された=羽島郡岐南町平成

 当時の業界は多くが社名に運輸、運送、トラックが付き、名前から業種が分かった。新しい物が好きで、海外視察の経験もあった軍治は、新本社に移転した翌年の72年4月、社名をトラックも運輸の文字もない片仮名の「エスラインギフ」に変えた。「スピード(迅速)、サービス(親切)、セーフティー(確実)のスリーSをモットーに、日本列島をSの形で1本のライン(線)にまとめ、全国一貫輸送体制をシンボライズした」。社名を変更した当初は、社員が県外の取引先で「何の会社や」と言われたこともあったが、少しずつ浸透していった。

 本社の移転、社名変更に先立ち、社内でマスコットも募集した。「軒下で巣を作ると縁起が良いといわれ、渡り鳥で遠い所にも預かった荷物を速く運ぶ」。そうしたイメージから、ツバメに決めた。68年に荷物をくわえたツバメを「トランスポート スワロー」の名称で商標登録した。本社ビルの屋上などに掲げたほか、トラックボディーに記して、走る広告塔とした。

 社内募集で決めたツバメをデザインした「トランスポート スワロー」=羽島郡岐南町平成、エスラインギフ本社屋上

 72年は25周年記念式典や3500人が参加した体育大会を開いたほか、社歌、安全サインの歌、新しい制服、永年無事故功労者招待旅行制度を次々に制定し、目まぐるしい記念の年となった。売上高(当時は8月期決算)は初めて50億円を突破していた。(敬称略)