若くして社長になった二代目山口軍治の経営は先取の気性にあふれていた。「ときめき(自主性)、ひらめき(創造性)、こだわり(独創性)を大切にして事に当たってきた」。本社に飾られた自画像の紹介文にある言葉の通り、先取の姿勢を示して社員を鼓舞した。

 その一つが、1977年に導入した業界初のプラズマ・ディスプレーによるオンラインシステム「3Sシステム」だ。荷物の動きが分かる情報システムで、「お客さまが預けた荷物がいつ着くか、今どんな状態か分からないようなサービスではいけない」と、伝票と荷物の動きを連動させたシステムを構築した。「お預かりした荷物の所在を3秒でお知らせする」をキャッチフレーズに独自性を打ち出した。

 業界で初めて導入したプラズマ・ディスプレーによるオンラインシステム

 軍治は後に「オンラインは当時、金融機関にもまだ入っていなかった」と話している。長男で5代目社長の山口嘉彦は「経理システムから入れる企業が多い中、オンラインシステムは先進的だった」と振り返る。新たな輸送商品の開拓につなげたオンラインは情報管理、時間管理に加えて、荷主管理でも効果を発揮した。79年10月、当時の運輸省から貨物自動車運送業務のシステム化に格段の努力をし、国の情報化の促進に多大な貢献をしたとして大臣表彰を受けた。

 業界では、トレーラーの導入も先駆けだった。軍治は1964年に渡米し、業界の仲間と米国のトラック輸送の実態を視察した。一度に多くの荷物を高速で運べる大型のトレーラーに衝撃を受けた。すぐに40台の導入を決め、翌年7月1日には名神高速道路の開通とともに1号車を走らせ、大量高速輸送時代のパイオニアとなった。トレーラーの導入は、業界紙の新年号の1面に写真入りで大きく掲載され、「岐阜トラックのトレーラーか、トレーラーの岐阜トラックか」と評判になったと紹介された。

 トラック輸送の実態を視察するため渡米した二代目山口軍治(前列中央)=1964年

 軍治は大量高速輸送時代の到来を予期して、トレーラーの導入と同時に、いち早く東京、名古屋、大阪などに荷役の機械化、省力化を図る近代的なターミナルを整備していった。荷主のニーズをつかみ、高速道路の延伸が後押しして業績を拡大させていった。

 事業の拡大を追求する中で、79年の年度目標には「上場を果たして生活向上」を掲げた。この年に売上高は100億円を突破し、80年4月に念願の株式上場を実現した。県内に本社、本店を置く企業では上場は早い方だった。名証2部に上場し、後に嘉彦が名証1部、東証1部への上場を果たしている。

 業界で先駆けて導入したトレーラー。大量高速輸送時代のパイオニアとなった

 「私の現場経営-トラックとともに七十年」。軍治は会長だった2003年11月、ベテラン経営者が若手経営者を育成するフォーラムで自身の経営について語った。「先代(初代山口軍治)から自分のお客さんの方をみて一生懸命働くことが大事だと教わった」と逸話を披露。「海外の物流を見ながら、自社の将来の姿を頭の中に描いていた。自分の信念に従って経営をしてきた」と米国視察にも触れ、「その時に何をやるかが大事であり、経営者には即効性と先見性の両方、『即見性』が求められる」と説いた。(敬称略)