第2代社長山口軍治の長男で専務だった山口嘉彦は2004年12月、年の瀬も迫っていた頃、第4代社長笠井清春に呼ばれた。「来年俺は降りるので次をやるように」。2人だけの部屋で次期社長に指名すると伝えられた。翌年6月、株主総会後の取締役会で正式に就任が決まった。48歳だった。

 嘉彦は東京本部長から専務を経て、社長に就任した笠井の後を追うように同じ役職を歩んでいた。ポスト笠井は想像されたが、「社長になるのは50歳を過ぎてから」と思っていた。少し早く社長に就き、最終責任を負う経営トップの道を歩み始めた。

 輸送業についてインタビューに答える社長の山口嘉彦=2021年12月21日、羽島郡岐南町平成、エスライン本社

 嘉彦は明治大商学部に籍を置き、学生時代を東京で過ごした。「社会勉強をしてくる」と学業やクラブ活動に明け暮れた。友人の父親が経営する都心の焼き鳥店で接客のアルバイトもした。「来店するメーカー社員や銀行員らの会話を耳にして、いずれ自分もサラリーマンになるだろう」。この時はまだ職業観は漠然としていた。

 しかし、4年生の夏には明確になっていた。卒業を前に友人らは就職活動に忙しく、採用内定が出る頃だった。嘉彦は就職活動をせず、海外留学の準備をしていた。「これからの社会は英語とコンピューターが必要となる」。米国を視察してトレーラーを導入し、オンラインシステムを先駆けて取り入れ、ビジネスに生かしていた父軍治から、こう言われていた。そのため、米国ピッツバーグ大に留学した。日本人が少ない大学で英語を学び、コンピューターの専門学校も修了した。

 2年間の留学を終えて帰国すると、エスラインギフに入社したが、勤務先は長野市の運送会社だった。エスラインに籍を置きながら、運送業の現場を経験した。高原野菜のレタスを集荷して名古屋市場へ運ぶ。大型トラックの助手や、2トン、4トン車での荷物の配送、営業所での経理も経験し、2年間修業した。エスラインに戻ると、配車や営業などを経験し、30歳前の人事部次長の頃から役員会、常務会へ出たほか、東京・名古屋・大阪の営業支社会議、労使協議会へも出席した。

 営業の現場、経営を体験してきた嘉彦は、社長就任後の本紙インタビューで「輸送業はサービス業」と考えを示し、「仕事をきっちりしてお客さまに喜んでいただく。地域密着で地域の一番店になる。人材育成をする。時代に左右されず変わらない経営理念、社是、社訓を徹底する」と4項目の実現を抱負に掲げた。

 家電量販店の配送業務の拠点・東北センター。物流で東日本大震災の被災地の復興を支えた=仙台市

 事業では、関東地区で大手家電量販店の配送業務の受注拡大に注力。既設の群馬県に次いで埼玉、千葉県、東京都などに順次拠点を開設し、業績を拡大していった。10年に開設した東北センター(仙台市)は、11年の東日本大震災からの復興時にテレビや洗濯機などの家電を仮設住宅に運び、設置も行い被災者の生活を支えた。初代山口軍治は物流で戦後復興の一端を担い、嘉彦は震災復興に尽力した。

 嘉彦は会社の統治体制に考えを巡らせる中で、就任翌年の10月、小口配送中心のエスライングループ、専門輸送主体のスワローグループなどの事業会社19社を純粋持ち株会社体制に移行した。エスラインギフを純粋持ち株会社とし、商号を「エスライン」に変更。エスラインギフを新設して輸送事業を承継した。嘉彦はエスラインの社長に就き、中核事業会社エスラインギフの社長も兼務して経営に当たった。

 持ち株会社体制への移行は経営と現場を分け、それぞれ責任と権限を明確化するのが狙いだった。工事が必要な家電の配送、出荷情報管理や保管、梱包(こんぽう)、検品まで、顧客に合わせた専門輸送、スクールバスの運行まで輸送サービスが複雑化する中、「持ち株会社化して、事業を個に分けて現場の指揮官に責任を持たせた方が役割がはっきりするし、会社にとってもメリットがある」と考えて決断した。(敬称略)