川本勇さんインタビュー3回目は、自身の経験や工夫に加え、さまざまな機会をとらえて、多くの指導者から学びやヒントを得る姿勢、2校目に監督を務めた大垣西での指導、新日本プロレス社長の棚橋弘至さんがメンバーの1993年秋の大会でベスト4になったチームについて聞いた。(岐阜新聞デジタル独自記事です)

―指導で影響を受けた人はいますか。
川本 自分が経験し、工夫してきたことを選手に伝えていったが、いろんな方に教えていただいたことは大きい。
亡くなられた元県岐阜商監督の森川豊さんは、特別指導の教員をしておられて、岐阜総合時代に学校にきていただいて、いろいろなことを教わった。こういう時はこうするとか、そのためにはこういう練習をしたらいいとか、細かいところまで、丁寧にご指導いただいた。
森川監督の時に県岐阜商でコーチをしておられた、高木守道さんの同級生の国井恒男さん。私のことを気に入っていただけたのか、「今、こういうことで悩んでいるんですけど」と相談すると、たくさんアドバイスしてもらった。
さらに後藤寿彦さん(現朝日大総監督)。いつも「おい、準優勝監督」とよくからかわれた。目をかけていただいて、いつも話をしてくださった。
全体を教える時にどうするとか、個々の悩みを解消するためには何が必要かとか、いろいろな勉強をさせていただいた。
川本勇(かわもと・いさむ) 1962年、金沢市生まれ。父親の転勤で住んでいた静岡市の小学生時代にソフトボール、少年野球に励む。中学2年で父親の実家のある大垣市に引っ越し、大垣南高では入学直後から二塁手でレギュラー、3年時に主将を務める。金沢大教育学部に進み、2年時から二塁手として北陸大学リーグに出場。岐阜県で教員になり、多治見、大垣西で監督を務め、1996年、合併で岐阜総合になる前年の岐阜西工に転任。99年春、初めて県大会で準優勝し、春県は5度準優勝。夏の岐阜大会は大野奨太(元日本ハム、中日)がいた2003、04年に2年連続で準優勝。部長だった07年にも準優勝。翌08年に転任した母校大垣南でも監督として準優勝し、2校にまたぐ2度目の2年連続、計4度目の準優勝を果たす。23年に退職後も、再任用として引き続き大垣南に勤務し、現在も副部長として指導に励む。
ほかにも、いろいろな方にお世話になった。キャッチャーのことは今、長良高校の部長の服部幹和君、ピッチャーのボールの握り方はこうすればいいとか三鴨勲さん(元本巣松陽などで監督)に教わったり、数え上げればきりがないほど。
練習試合の対戦相手の指導者の方ともそうだが、...