名将流儀は今回から鍵谷英一郎さん(58)。母校の県岐阜商で学校創立100周年の2004年と、2006年の2度、夏の甲子園に導き、今春まで6年にわたり、岐阜県高野連専務理事を務めた。今年3月末に退職を決断、来年発足予定の独立リーグ球団運営会社の副社長・野球事業部長に就任し、岐阜県初のプロ球団創設という岐阜野球人の夢の実現に向けて日々、奔走している。鍵谷さんが歩んできた野球人生のさまざまな立場から岐阜県高校野球の発展に尽力してきたモットーや情熱、独自の発想などについてインタビューした。第1回は野球との出会い編。
かぎや・えいいちろう 1967年、可児郡御嵩町生まれ。小学4年で、岐阜県高野連の審判だった父親が立ち上げた伏見スポーツ少年団で野球を始める。左投手。県岐阜商から愛知学院大を経て、1990年に岐阜県で教員に。中津商、土岐紅陵を経て2003年から母校の県岐阜商で監督。学校創立100周年の04年と06年に夏の甲子園に出場。その後は武義、中津商、東濃実、県岐阜商、岐阜各務野に勤務。岐阜県高野連の中濃・飛騨支部長、会計を経て20年から6年間、専務理事として岐阜県高校野球の発展に尽力。今春、退職し、来年、独立リーグ加入を目指す「岐阜ダイヤモンドリバーズ」を運営する「Green Light Project」の副社長・野球事業部長として岐阜県初のプロ球団の立ち上げに取り組む。
―野球との出会いは。
鍵谷 父親が岐阜県高野連の審判を長年していて、僕が小学校4年の時に地元でスポーツ少年団を立ち上げ、1期生だった。もう、アニメの「巨人の星」の世界。父親が監督で、左ピッチャーで、気がついた時には左利きのグローブを渡されて、左利きになっていたみたいな感じ。とにかく厳しくて、フォアボール1個出したらビンタされたり、家まで走って帰らされたり。今では考えられないけど、チームはそこそこ強かったし、野球をやること自体が好きだった。
ただ、欲はなかった。勝ち進んでいけば、全国大会に出られることは知らなかったし、近くにあった硬式チームの存在も知らなかった。父親に連れられて、県営球場(現ぎふしん長良川球場)には高校野球の岐阜大会を見には行っていたが、そもそも多くの指導者が経験してきた、選手としてなんとしても甲子園に行きたいとか、プロに憧れるとかいうことは全くなかった。...








