太平洋戦争末期の1945年7月9日、およそ900人が犠牲になり、岐阜市中心部を焼き尽くした岐阜空襲では、当時の岐阜合同新聞(現在の岐阜新聞)も社屋を焼失し被災した。間もなく発行を再開したが、戦時中の言論統制などにより被害の状況はほとんど伝えられず、「戦い抜いて晴々」などと混乱の中にあるはずの市民をたたえる見出しが躍っていた。当時の報道の実相を探った。

戦時下では言論統制が進み、全国的に地方紙は統合された。市民の主な情報源は新聞とラジオだった。しかしその内容は戦意高揚を図るための報道が中心で、...