千羽鶴が飾られた会場で岐阜空襲の体験を話す青木成方さん=9日午前、岐阜市役所(撮影・堀尚人)

 岐阜空襲から80年の9日に岐阜市で開かれた「平和の鐘式典」で、空襲の被害や戦時下の暮らしを証言した青木成方(しげのり)さん(87)=同市=は当時、国民学校の2年生だった。焼け出され、市外の避難先で敗戦を迎えた7歳の少年は、敗北すれば皆で自決するのだと信じていた。「異常な体験が今も心のどこかに残っている」と語る。

 青木さんは、市中心部の「京町地区」に当たる上竹町で、祖父母と両親、旧制中学に通っていた15歳の兄と6人で暮らしていた。1945年7月9日の夜、警戒警報が鳴り響くと、自営業で消防団員をしていた父親は自宅前の防空壕(ごう)で待機。残る家族で荷物を載せたリヤカーを引き、北東の伊奈波神社(同市伊奈波通)へ避難した。

 神社からは、焼夷(しょうい)弾が...