日本で最初の「保健室の先生」と言うべき伝説的な人物が、明治末期から昭和初期の岐阜市にいた。広瀬ます(1883~1935年)だ。現職のまま病死するまでおよそ26年間、岐阜市の京町小学校(現・岐阜小学校)に勤務。まだ衛生という考え方すら一般には普及していない時代に、各家庭を回って病気の予防について説明したり、自費でけがをした児童を運ぶ「救急車」を手作りしたりと、子どもを思う気持ちを原動力に、次々と新しい手法を生み出し、今に続く「養護教諭」の礎を築いた。

養護教諭の職にあって、その名を知らない人はいないと言われるほどの〝レジェンド〟だが、その功績や、非業の死を遂げるまでの歩みが広く知られているとは言いがたい。新型コロナウイルスの感染拡大で、学校衛生における養護教諭の役割が重みを増す中、今も地域に根付く「まず健康」の精神を育んだ広瀬ますとは一体、どんな人物だったのか―。3回にわたって紹介する。

家計を支えた小学生時代
ますの献身の原点はどこにあったのか。岐阜市教育委員会が1958年に発行した道徳の副読本「ぎふにすだつ心」に、ますの生い立ちが紹介されている。ますは1883(明治16)年1月1日、岐阜市柳町で9人きょうだいの3番目に生まれた。姉2人を早くに亡くしたため、最年長として小学生のころから糸繰りの仕事で家計を助け、幼い弟や妹の面倒もみた。わずかな給料をやりくりし、身寄りのない子の世話もしたという。

1899年に地元の病院に看護婦養成所が設立されると「これこそ自分に与えられた仕事」と母親の反対を押し切って入所。看護婦と産婆の免許を受けた。しばらく病院に勤め、1908年に京町小学校に派遣、すぐ移籍して職員となった。日本初の公費負担の学校看護婦として、ますの活躍はここから始まる。