岐阜第一監督として今年で10年になる田所孝二監督。岐阜県で春夏秋ほぼ毎回ベスト4以上に食い込み、優勝も春秋1度ずつあるが、甲子園出場は今年も果たせなかった。前任の福知山成美(京都)では春夏計6度、甲子園に出場し、春夏1度ずつベスト8に導いた名将。ユニークなのは社会人野球の日本新薬(京都)で活躍した後、青年海外協力隊としてグアテマラで2年間、野球の指導に携わったこと。中南米の「野球は楽しむもの」を原点に、ノーバントの1番から9番までフルスイングで打ち勝つラテン野球をベースに、真逆の日本の高校野球で指導者として長年、活躍している。第1回は田所監督の野球との出会い、大学までの歩みについて聞いた。(岐阜新聞デジタル独自記事です)

―野球との出会いは。
田所 生まれは福岡県小郡市だが、もの心ついた時から住んでいたのが甲子園の近くの兵庫県伊丹市。報徳学園も近く、近所の新聞配達のおじさんが元プロやったとか、報徳のエースやったとか、近所の子供集めて野球教えたりしてて野球への熱量がすごく高い土地柄だった。
母親が大の野球好きで阪急(現オリックス)の当時の本拠地の西宮球場も近いので、西宮球場や阪急百貨店での選手のサイン会に連れていってもらったりした。阪神よりむしろ阪急の方が好きだった。
大阪桐蔭の西谷浩一監督も近くに住んでいて、年は離れているので対戦はないけど、「あの辺にクワガタ捕りにいきませんでしたか」とか昔話で盛り上がる。社会人野球の先輩とかも近くの小学校、中学校だった人が多くいた。まさに「野球を楽しむ」環境だった。
中でも阪神優勝大会という少年野球の大会が甲子園ででき、こんな恵まれた環境はないでしょう。それも目標にして小学校3、4年から少年野球をやっていた。
一つ上の兄が結構、いい投手で自分が5年生の時に伊丹市で優勝し、初めて甲子園の土を踏んだ。自分はライトで9番だった。内野の芝生の切れ目くらいでライトを守っていた記憶がある。
―小学生で甲子園でプレーしたのはすごい経験ですね。
田所 ただ、サッカーも好きだったし、サッカーの方がいい選手だった。中学生になり、京都府福知山市に引っ越すが、サッカー部がなかったので、...