田所孝二監督インタビューの4回目は、グアテマラでの青年海外協力隊から帰国し、福知山成美高(当時福知山商、京都)の教員になって、日本の高校野球とは真逆のラテン野球をいかに目指し、3年目で甲子園初出場を果たしたかについて聞いた。(岐阜新聞デジタル独自記事です)

―中南米の野球を知ったことで日本の高校野球指導者になる気持ちが薄らいだとおっしゃってましたが、また、どうして高校監督になられたんですか。
田所 実は日本に帰ったら、野球しようとは全く思ってなかった。ほかの仕事しようとJICAの試験を受けた。スペイン語の勉強もしたのに、見事に落ちた。もう一つは大手ビール会社で、これは東京での就職で、1次試験には受かっていた。でも妻がめちゃくちゃ怒って「2年で帰ってきて、こっちで暮らすって言ってたのに、またなんで東京行くの」って。それでやめた。
すると、地元の福知山商から、教員としてきてくれませんかと誘われた。それは青年海外協力隊とは関係なくて、社会人野球をしていたので単に野球の指導者を探しているということだった。
採用の時、理事長に企画書を持っていった。「楽しいクラブづくりをします。面白いものをつくって、選手の募集を増やします」という内容で、「甲子園に出ます」なんて一切、書かなかった。基本的にあまり勝とうとは思ってなくて、楽しく野球がしたいと思った。
―中南米と真逆の日本の高校野球で中南米の野球をやろうとしたわけですね。それで、結果も出したのはすごいですね。

田所 でも、時々、OBとかで勝つことにこだわってうるさい人がいて「今年は優勝」とか言ってきたりしたが、2番でもガンと打たせて、絶対バントなんかするか―という野球だった。さすがに岐阜ではよそいきの野球だったが、福知山成美では一切せず、ずっと貫いた。
日本の細かい野球で走塁で一生懸命走るとか、いいと思うことは取り入れたけど、基本はラテン野球で「外野の頭越えろ」という野球。鍛治舎巧さんもそうだった。ボーイズリーグのオール枚方で1番から9番まで外野の頭を越える野球していたから、もう無敵。フルスイングしなかったら「なんで振らないんだ」と怒られる。「日本で自分がやろうとしていることやってる人、もうおるやん」って衝撃だった。
鍛治舎さんと波長がぴったりと合ってオール枚方から、選手を送ってもらった...