田所孝二監督インタビュー3回目は、青年海外協力隊の中南米・グアテマラ編。ナショナルチームのコーチとなり、キューバの指導者、選手と親しく接したことが、田所野球の原点になった。ユニークなエピソードを交えてグアテマラでの経験を聞いた。(岐阜新聞デジタル独自記事です)

田所孝二(たどころ・こうじ) 1960年、福岡県小郡市生まれ。幼少期に兵庫県伊丹市に引っ越し、甲子園に近く、野球の熱量の高い土壌で野球を始め、小学5年の阪神優勝大会で甲子園の土を踏む。主に遊撃手で、中学で京都府福知山市に引っ越し、福知山高校、関大を経て社会人野球の日本新薬(京都)で活躍。33歳で退社し、1993年から2年間、青年海外協力隊として南米のグアテマラで過ごし、ラテン野球に接する。帰国後、96年に福知山商(現福知山成美)の教員となり、8月から監督。3年目の99年夏に初出場させてから春夏6度、甲子園に出場し、ベスト8が春夏各1度。島本浩也(阪神)、桑原将志(DeNA)ら多くのプロ野球選手を育てる。2014年から同校校長。16年4月、岐阜第一の監督に就任。春、秋の県大会で優勝各1回。甲子園出場はないが、ほぼ毎大会ベスト4以上の強豪に育てる。
―いきなり代表コーチになったのもすごい経験ですね。
田所 代表コーチになって最初にあった大会が隣のエルサルバドルでの中南米オリンピック。ニカラグアがずっと優勝していて、世界で4位になるくらいに強かったが、初めてグアテマラがニカラグアに勝って、銀メダルを取った。ピッチャーがよくて、ドジャーズと契約した。

グアテマラはお金がなかったら大会に行かないとかその後の予定は何もたっていなかったが、中南米オリンピックで銀メダル取ったのが大きく、強化試合するといってキューバは呼ぶわ、メキシコに行くわで活動が活発になった。
当時のアマチュアの中で、国ではなく、最強のクラブを決める世界選手権がメキシコであった。日本は1回しか出てない大会らしいが、そこへの出場権も得た。単独のクラブで行っても勝てないので、ナショナルチームを一つのクラブにして、出場した。
僕はコーチで行ったのに、サードの選手がほとんど守っていないのにねんざして「外国人は出れるから、お前出ろ」と言われて、選手として出場した。そうしたら活躍して、三塁打3本くらい打った。結局、予選敗退だったが、楽しかった...