「板垣退助が刺された」―。1882年4月6日夕、金華山山麓の中教院(現在の岐阜公園内)玄関前は騒然となった。その様子を伝える錦絵「板垣君遭難之図」には、取り押さえられた犯人・相原尚褧(なおぶみ)(なおふみ、しょうけいとも)を指差し、にらみつけながら何か言葉を発する板垣の姿が描かれている。

 錦絵「板垣君遭難之図」(岐阜市歴史博物館蔵)

 「板垣死すとも自由は死せず」

 この時生まれた“岐阜発”の名言は、140年経た現代でも、自由民権運動の象徴として語り継がれている。板垣は結果的に軽傷だったものの、伝記「板垣精神」によると、駆け付けた側近たちに「胸を二個處(かしょ)やられた故(ゆえ)生命(いのち)は駄目なり」と発したという。死も覚悟する局面で、こんな名文句が浮かんでくるものだろうか。

 「かつては美談として後から創作されたという説もあったが、近年では本人の言葉だというのが定説になっている」。高知市立自由民権記念館出版の「板垣退助伝記資料集」を編集する元土佐史談会副会長の公文豪さんは解説する。

 岐阜新聞社に残る「中教院」の写真

 その根拠の一つが、板垣を見張っていた警察官の報告書。板垣は東面して(犯人側を向いて)立ち、左面より出血するとき「吾(われ)死するとも自由は死せん」と吐露したと記されている。公文さんは「板垣を監視する政府の密偵なので美化する必要もない。見たままの状況を報告したと考えるのが自然だろう」と指摘する。

 センセーショナルな場面として、事件後に芝居や錦絵で表現された一方、「誰に向けて」「何と言ったのか」についてはさまざまなパターンがある。

 事件数日後発行の自由党本部報(臨時報)には、事件の詳細について、駆け付けた側近たちが板垣を抱いて運ぶ中で「板垣は死するも自由は亡(ほろ)ひす」と発したと描写されている。公文さんは「とっさに犯人に言った後、介抱されながら周囲にも同じようなことをまた言ったのではないか」と語る。

 岐阜公園内に立つ「板垣退助君遭難地」の碑

 板垣研究を進める中元崇智中京大教授によると、事件を報道した各新聞も「犯人に言った」「側近に言った」「両方の場面で言った」の3種類に分かれるという。文言についても「日本の自由は滅せざるなり/自由の精神は死なぬ」などと複数の表現で報じられており「近いニュアンスの発言があったのは確かだろう。時代を経るうちに現代に伝わる名言調に整えられた」と説明。

 さらに、板垣が岐阜事件の1~2年前の大阪や甲府での演説でも「自分は権利自由のために命を懸ける」という趣旨の発言をしていることを挙げ「日頃から死を覚悟して人民の権利や自由を守るという強い信念を持っていたからこそ、とっさの場面でも言えたのだろう」と解説する。

傷7ヵ所でも命に別条なし 襲撃犯は“素人”だった

 相原尚褧が振り下ろした刃(やいば)は、板垣退助の胸に突き刺さった―。この襲撃で板垣が負った傷は胸の左右と左頬、手の4カ所で計7カ所。ただ命に別条はなかった。中教院前で何が起こっていたのか。

 伝記などによると、胸に一撃を受けた板垣は、肘で相手の腹部に当て身をくらわした。よろめいた相原が再度襲いかかると、その刃先が再び板垣の胸に刺さった。板垣は相手の手をつかんで離さず、もがいた相原が手を引いたため、板垣の手に刃が食い込んだ。手の傷は「深さほとんど骨に達す」(板垣精神)ほどだった。側近らが駆け付け、相原を引き倒した。

 現在は岐阜公園となっている一角に、事件現場となった中教院があった=岐阜市大宮町

 刃物を持った相手に、素手で対抗した板垣。にもかかわらず軽傷で済んだ。尋問調書によると、相原は士族で当時27歳10カ月。高知の自由民権運動研究者・公文豪さんは「板垣は戊辰(ぼしん)戦争の修羅場をくぐった武人であり、素早い身のこなし。一方の相原は幕末の頃まだ子どもで、士族といってもまともに刀を握ったこともなかっただろう」と話す。

 板垣は後年、相原の“素人ぶり”を振り返っている。1901年6月21日、東京市会議長・星亨の暗殺事件が起きた。星の通夜で、板垣は「今度の凶行者(星を殺した犯人)は身を相手の体にすり寄せ、中腰になって刀を下したところなどは心得のあるものらしい」と指摘する一方、「我が輩を傷(や)った相原などは素人である。刀の持ちようや、立ち離れて人を刺そうとするのはまるで田舎芝居流であった」と語ったことを、東京朝日新聞が報じている。

 また「板垣退助君傳(でん)記」では、遭難事件当日の板垣の服装について「幸いにラッコ毛皮のチョッキを着ていたため刃が深く透(とお)らなかった(刺さらなかった)」と、命を救った意外な“功労者”について触れている。