胸や脇あたりに血だまりが残る板垣退助の「血染めのシャツ」。右袖は人為的に切り裂かれている
過去には博物館の特別展で公開されたこともあるという「血染めのシャツ」について語る村雨耕一さん=愛知県安城市

 切り裂かれた1枚の白いシャツ。染み付いた複数の血痕は、ちょうど140年前の岐阜での生々しい記憶を宿している。1882(明治15)年4月6日、金華山の麓で起きた「板垣退助岐阜遭難事件」。シャツは、自由民権運動を推進した板垣が暴漢に短刀で襲われた際に身に着けていたもの。事件直後に発せられたという「板垣死すとも自由は死せず」の名言が生まれた瞬間に〝立ち会った証人〟は、愛知の民家にひっそりと残されてきた。

 「板垣さん本人から祖父母が頂いたと聞いています」。所蔵者の村雨耕一さん(83)=愛知県安城市=が、箱にしまっていた「血染めのシャツ」を取り出した。縦約60センチ、横幅約45センチ、袖の長さ約50センチ。裏地がある厚手のシャツは、胸の部分が大きくえぐり取られ、右袖は胸から手首まで人為的に切ったように直線的に裂かれている。左胸や右脇の辺りには血だまりが2、3カ所。手首にも大きめの血痕が残り、胸部の裏地にも転々と血のようなものが付いている。

 事件は、自由民権思想を広める板垣が、金華山の麓にあった中教院(現岐阜市・岐阜公園内)で演説をした後に起きた。短刀を持った相原尚褧(なおぶみ)という男に切りかかられた板垣は、元武人らしい身のこなしで何とか命を守ったが、もみ合う中で刃(やいば)に傷付けられた。

 負った傷は右胸、左胸、左頬、両手の計7カ所。シャツの血痕ともおおよそ重なる。「板垣退助君傳(でん)記」には、治療した医師後藤新平の回顧談として、服を着たまま寝椅子に寄りかかっていた板垣に対し「外科用の大きなはさみを取り出して、首のところから、ずっと手首までワイシャツを切断した」と記されている。切り裂かれた胸回りや右袖はこの時の治療の痕跡だろうか。

 ところで、板垣の容体については回顧談に「胸部はかすり傷ばかり」とある。板垣はフロックコートの下にチョッキを着ており、「幸いラッコ毛皮のチョッキのため刃が深く通らなかった」(同傳記)とも。さらに、板垣の行動を監視していた警察官の報告書にも「軽傷にして命に関わるほどのことはなし」の文言。多数の血痕が付いた「血染めのシャツ」からは、確かに傷付けられたことが分かる。一方で、回顧談などを裏付けるように、出血量は命の危機とはいえない程度だったという〝事件の実態〟もうかがえる。

 シャツは、板垣と関わりがあった豊橋の自由民権運動家・村雨案山子(かかし)、のぶ夫妻が板垣本人からもらい受け、現在は孫の耕一さんが所蔵する。岐阜遭難140年の節目で取材に応じた耕一さんは「久々に開封したが、やはり事件の生々しさが伝わってくる。犯人の短刀が高知に残されており、刺した刀と刺された服をいつか一緒に展示する機会があれば、多くの人にもっと事件を奥深く感じてもらえるのかもしれない」と話した。

 

 板垣退助 幕末の土佐藩生まれ。戊辰(ぼしん)戦争で活躍し、明治新政府の幹部となったが、征韓論を巡って西郷隆盛らとともに下野した。1881年に自由党を結成し自由民権運動を主導。国会開設などを訴え全国を遊説するさなか、岐阜事件が起こった。1890年の帝国議会開設後は、第2次伊藤博文内閣や第1次大隈重信内閣で内務大臣を務めた。