「板垣死すとも自由は死せず」―。立派なひげ、ぴんと伸ばした背筋、右手を上げて何かを訴えるような表情。今に伝わる名言が生まれた金華山の麓、岐阜市の岐阜公園に立つ板垣退助の銅像は、明治期に自由民権運動を推進した姿を伝えている。

岐阜公園に立つ板垣退助の銅像。コートを着て、左手に杖(つえ)を持ち、右手を上げている=岐阜市大宮町

 岐阜の人々には政治家の姿がなじみ深い一方で、栃木県日光市の板垣退助像は、腰に刀を差した“サムライ・スタイル”。腕を組み、鋭い視線を日光東照宮に向けている。全国に数ある板垣像の中で唯一、幕末の戊辰(ぼしん)戦争で活躍した軍人としての勇姿だ。子どもの頃はガキ大将で、30歳過ぎで官軍司令官になった。「自由民権運動の指導者」のイメージとは重ならない。

 板垣は、幕末の1837年、土佐藩(高知)の上級武士の家に生まれた。学問嫌いの「武闘派」。幼なじみでけんか仲間だったのは、明治政府を支える政治家になった後藤象二郎。板垣は潔癖症、後藤はヘビが嫌いだったため、けんかをする時には板垣が後藤にヘビを投げつけ、後藤は板垣に糞(くそ)を投げたという逸話も残るほど。やんちゃぶりが目に浮かぶ。

 

 成長した板垣は土佐藩の要職に就くが、やがて倒幕運動に力を注いでいく。1867年、薩摩の西郷隆盛らと「薩土密約」を結んで挙兵を誓い合った。高知城歴史博物館の学芸員は「この密約は、あくまで板垣が個人的に西郷との協力を約束したかたち。(倒幕志士の)土佐勤王党や、坂本龍馬とは別の動きだったようだ」と語る。

 1868年に旧幕府軍との戊辰戦争が始まると、官軍を率いる司令官の一人として躍動した。京都から美濃を抜け、甲府、北関東、会津へと進軍。甲州勝沼の戦いでは「板垣軍」が新選組隊長の近藤勇率いる甲陽鎮撫(ちんぶ)隊を破っている。

 

 日光での戦いでは、銅像建立の由縁となった伝説が残る。

 旧幕府軍は日光山に立てこもった。板垣は「このままま戦えば徳川の象徴である日光東照宮が焼失してしまう」と旧幕府軍に撤退か降伏を説いた。東照宮を守ろうとした行動について、板垣研究で知られる中元崇智中京大教授は「徳川慶喜は倒すべき相手だったが、徳川260年の恩や徳まで敵視していなかった」と解説。徳川歴代を重んじるのは「土佐藩は、外様の薩長と違い、関ケ原の戦いの功績でとりたてられた山内家の藩ということもある」と語る。

日光東照宮近くに立つ、刀を差した官軍の軍服姿の板垣退助像=栃木県日光市(中元崇智教授提供)

 旧幕府軍は日光から撤退し、日光東照宮は戦火を免れた。板垣は「日光の恩人」とたたえられ、官軍司令官姿の銅像となって今も東照宮を見つめている。

 1882(明治15)年4月6日、金華山の麓で遊説中に暴漢に刺された「板垣退助岐阜遭難事件」。その時に発した言葉は、板垣を自由民権運動の象徴へと押し上げた。2022年は事件から140年。板垣の人物像や“岐阜発の名言”の舞台裏を改めて探った。

大垣で「乾」→「板垣」改姓 武田信玄の遺臣前面に 

 「板垣退助」という名前が誕生した地は、なんと大垣だった―。板垣は土佐の乾(いぬい)家に生まれ、「乾退助」が当初の名前。戊辰戦争のさなか、東征する道中で改姓した。

 明治期発行の「板垣退助君伝」には「大垣に至り乾を改め板垣と称す」。板垣百回忌を記念して2019年に編さんされた「板垣精神」にも「美濃大垣の陣中において」東征軍(官軍)の総督岩倉具定(ともさだ)の助言を受けて板垣に改姓したと記されている。中元崇智中京大教授は、その背景を「板垣軍の行き先が甲州になったため」と解説する。

岩倉具定率いる東征軍は大垣城に入城し、しばらく滞在したという=大垣市郭町

 乾家の先祖は、戦国期に甲斐で武田信玄に仕えた「武田二十四将」の一人、板垣信方(のぶかた)とされる。激戦が予想された甲州に向けて、「武田の遺臣であることを前面に出して、人々の心をつかもうとした」と中元教授。甲府では、義勇軍として多くが新政府側の味方についたといい、効果は大きかったと言えるだろう。

 では、大垣のどこで改姓を決めたのか。大垣市文化財保護協会の清水進会長は「岩倉率いる東征軍は大垣城に入城し、城とその周辺にしばらく滞在した」と語るが「地元に残る資料で、板垣の名前が具体的に記されたものは確認できていない」という。

 板垣を描いた歴史小説「自由は死せず」(門井慶喜著)でも「大垣改姓」がクローズアップされている。元教員で文芸愛好家の樋口健司さん(揖斐郡池田町)は、近々自費出版する「文学に描かれた西美濃」(仮題)の中で紹介。「岐阜公園と自由民権運動だけでなく、幕末の西美濃にも縁があったことをもっと知ってもらえたら」と話す。