秋田和哉監督インタビュー3回目は、最強チームと言われた中京を岐阜大会準決勝で破って、自身、指揮官として初の甲子園出場を果たした市岐阜商2003年編。同年の中京は前年秋の明治神宮大会で県勢初優勝し、センバツベスト16の3回戦で広陵(広島)に敗れたほかは県内外で公式戦無敗。3人がプロ入りし、岐阜大会初戦では、1試合10本塁打の全国でも類をみない快記録を打ち立てたドリームチーム。岐阜県高校野球史上屈指のジャイアントキリングと言われた試合の秘話、戦略について聞いた。

 秋田和哉(あきた・かずや) 1968年、岐阜市生まれ。内野手、捕手。県岐阜商3年時に夏の甲子園に出場。名城大に進み、1年から出場、4年時に主将も務めた。岐阜県で教員になり、母校の県岐阜商副部長、中濃(現関有知)監督を経て、99年に市岐阜商に転任し、翌2000年から監督。03年と08年に2度甲子園出場し、常に県上位の強豪校を築く。中神拓都(元広島)らを育てる。20年から岐阜城北に転任し、監督。24年に甲子園出場を果たした。4人の息子も高校球児で長男千一郎(市岐阜商出)、四男和佳(岐阜城北出)とは親子鷹で甲子園を目指した。

 ―市岐阜商で選手が来るようになって、どんなチームづくりをされましたか。

市岐阜商監督時代の秋田和哉監督

 秋田 3年目の2002年に春の県大会で準優勝するが、とにかくその3年間はひたすら練習をした。自分が若かったのもあるが練習をやって、やって、やり抜いた。冬場も夕方6時半くらいまで技術練習して、食事した後に体育館で10時くらいまでトレーニングした。

 ターニングポイントとなったのは、就任2年目の2001年、秋の県大会のベスト8を決める2回戦で、夏に甲子園に出場した藤田明宏監督の岐阜三田と対戦し、初回に一気に10点取られて、3―14で負けた試合。エースが右の本格派の中田智義で、戦力に自信を持っていた。でも、前進守備を敷いたら後ろを越えるわ、下げれば前へポトンと落ちるわ、やることなすことすべて裏目に出た。

 自分がどういう野球をすべきなのか定まってなかった。「1点やってもいいぞ」という姿勢でやれば、失点は防げたのに、「初回から点をやらない」という野球をやって、結果、失点を重ねた。

 そこから、序盤はあまり前進守備を敷かないようにした。やるべきことをしっかりやってアウトを稼ぐ考え方に切り替わった。

 ―2002年に春、夏とも県で準優勝するんですよね。

 秋田 次の年02年の春の大会は、岐阜地区大会で加納に引き分け、前年に2年でセンバツ出場した前野祐樹がエースの岐阜第一に勝ったが、清翔(現岐阜聖徳)に負け、勝った方が県大会出場の岐阜総合との試合に勝って、ぎりぎりで県大会に出場を決めた。4月になったら県岐阜商での恩師の太田郁夫先生が来て部長になったのが、また大きな転機になった。

 県大会は逆転の連続で決勝まで行って、...