秋田和哉監督インタビュー2回目は、県岐阜商副部長から3年間の中濃監督を経て、市岐阜商に赴任し、2000年から監督を務めた当初の指導について聞いた。

 秋田和哉(あきた・かずや) 1968年、岐阜市生まれ。内野手、捕手。県岐阜商3年時に夏の甲子園に出場。名城大に進み、1年から出場、4年時に主将も務めた。岐阜県で教員になり、母校の県岐阜商副部長、中濃(現関有知)監督を経て、99年に市岐阜商に転任し、翌2000年から監督。03年と08年に2度甲子園出場し、常に県上位の強豪校を築く。中神拓都(元広島)らを育てる。20年から岐阜城北に転任し、監督。24年に甲子園出場を果たした。4人の息子も高校球児で長男千一郎(市岐阜商出)、四男和佳(岐阜城北出)とは親子鷹で甲子園を目指した。

 ―県岐阜商の硬式野球部副部長としては、どんな感じでしたか。

県岐阜商副部長時代の秋田和哉監督(1995年)

 秋田 主に在留の1、2年を指導していた。当時は今みたいにB戦の練習試合とかはあまりなかったので、隣の岐阜北高校の増田純一監督のところに行って、「Bですみませんが試合してくれませんか」と頼んで試合していた。向こうはAチームで、当時秋の大会でベスト4になるなど強かった。

 当時は1年生大会があり、監督として出場した。1995年、元広島の石原慶幸や社会人のトヨタ自動車で活躍した秋田祥孝らのチームの時に、阪神に入った奥村武博がエース(捕手は県岐阜商の現エース柴田蒼亮の父・崇之)の土岐商に決勝で負けた。

 彼らが3年になった夏の岐阜大会決勝で再び対戦し、リベンジして甲子園に行った。僕はもう転勤して県岐阜商にいなかったんだけど打力の高い大型チームだった。県岐阜商には5年いて、最初3年は小川信幸先生、2年は亡くなられた森川豊先生が監督。小川先生は伝統の緻密な岐商野球だったが、森川先生は豪快で、お2人から大いに学ばせていただいた。

 ―県岐阜商からの転任先は。

 秋田 中濃で、後に中濃西と合併して今は関有知。行ったら驚いたことに野球部員が3人しかいなかった。...