難攻不落度
「技巧的な防御網が張り巡らされた巨大な軍事要塞」
遺構の残存度
「山肌には竪堀や堀切、切岸などが残されている」
見晴らし
「濃尾平野を一望。かなたの金華山まで見渡せる」
写真映え
「撮影ポイントは山頂からの眺望か」
散策の気軽さ
「登山道は複数あり。比高差は約300メートルで、健脚向け」
美濃と近江の境、濃尾平野を見渡す標高401メートルの険しい山に築かれた菩提(ぼだい)山城(岐阜県不破郡垂井町)は、豊臣秀吉の軍師竹中半兵衛ゆかりの城。西美濃最大級の広さを誇った山城は、高度な防御網が張り巡らされた巨大な軍事要塞(ようさい)だった。その遺構が今も山肌に残されている。
戦国期の1540年代に土豪岩手氏の城として存在していた史料が残る。1558年に半兵衛の父・竹中重元が岩手氏を滅ぼし、居城として大規模に整備。父子にわたって城主を務めた。
最大の特徴は、各尾根に施された入念な防御設備。特に、中山道が通り濃尾平野に面する南東側や、交通の要衝「関ケ原」がある南西側への意識が強いことがうかがえる。
登山道がある南東側は、頂上近くに階段状に複数の平たん面が築かれ、堀切(ほりきり)が尾根線を分断する。直上の二の曲輪(くるわ)へは絶壁の切岸(きりぎし)になっており、ここを駆け上がるのは難しいだろう。
南西側の尾根筋は、放射状に張り巡らされた竪堀群と堀切や横堀が交差する技巧的な防御設備。そこを突破しても出曲輪の先には大堀切が待ち受ける。西側も二つの大きな竪堀や土塁、空堀で侵入者を足止めする。主郭部となる本曲輪と二の曲輪は、周囲を絶壁の切岸で囲われている。進入路は「二重虎口」となっており、抜かりのない仕掛けだ。東に開けた山頂の本曲輪からは、果てしなく広がる濃尾平野を一望でき、金華山のシルエットもうっすら見える。
1564年に斎藤龍興の稲葉山城を乗っ取り、その名を広めた半兵衛。織田信長の北近江・浅井攻めでは調略で活躍し、軍師として地位を確立していった。国境から美濃を見渡しつつ、背後の近江にもにらみを効かせることができた山城は、戦国を生き抜く強力な“後ろ盾”になったに違いない。
中世城郭の構造を持つ菩提山城について、垂井町教育委員会の学芸員亀田剛広さん(38)に解説してもらった。
美濃と近江の境という戦略上重要な場所に立地し、地形を生かした非常に強固な造り。堀切や竪堀、土塁など、それぞれが明確な意図をもって造られていることが伝わってくる。
中でも大きな特徴は虎口で、珍しい二重構造。クランクした先に土塁を設けた最初の関門があり、そこを突破しても本曲輪と二の曲輪の間の空堀によって歪曲(わいきょく)された細い土橋を進まなければならない。
北側の防御はやや簡素なものの、その先は伊吹山系の険しい山々が続いている。ここから大軍が攻めてくるという想定はしづらく、弱点は見当たらない。まさに難攻不落の「戦国期の山城」であることが感じ取れる。
竹中氏は小さな勢力だったが、ここを拠点にできたことが最大の強みとなり、戦国美濃の中で存在感を高めていくことができたのではないか。半兵衛の嫡男重門は、麓に館を構えて陣屋としたため、その時代に城の役割は終えた。