二つの分子が「学ぶ」「慣れる」の神経回路を作り分ける
| 【発表のポイント】 脳の並列神経回路※1を作り分ける「分子コード(配線暗号)」※2を世界で初めて解明しました。 大脳基底核※3において、プロトカドヘリン※4と呼ばれる分子群に属する二つの分子が、それぞれ「学ぶこと」と「慣れること」という異なる脳の働きを支える神経回路を並列的に組み立てる仕組みを動物実験で明らかにしました。 本研究は、脳が多様な働きを生み出す配線原理を示す成果であり、今後の神経・精神疾患(統合失調症や自閉スペクトラム症など)の病態解明や新たな治療法開発への貢献が期待されます。 |
私たちの脳は、どのようにして「学ぶ」と「慣れる」という異なる働きを支える神経回路を混ざり合うことなく作り分けているのでしょうか。この分子機構は長年にわたり脳科学の大きな謎とされてきました。早稲田大学高等研究所の星名直祐(ほしななおすけ)講師、ハーバード大学ボストン小児病院の梅森久視(うめもりひさし)教授らの国際共同研究グループは、早稲田大学理工学術院の井上貴文(いのうえたかふみ)教授らとともに、脳の並列神経回路を正しく作り分ける「分子コード」の解明に世界で初めて成功しました。神経細胞どうしをつなぐプロトカドヘリン分子群に属する「PCDH17」と「PCDH10」という二つの分子 が、それぞれ「学ぶこと」と「慣れること」を支える別々の神経回路を正しく形成することを明らかにしました。本成果は、統合失調症や自閉スペクトラム症などの神経・精神疾患の病態解明や、新たな治療法の開発につながることが期待されます。本成果は2026年8月21日(現地時間)に『Science Advances』で公開されました。
キーワード:
神経回路 大脳基底核 分子コード 配線暗号 学習 慣れ 神経・精神疾患 プロトカドヘリン
(1)これまでの研究で分かっていたこと
脳の中には、「大脳基底核」と呼ばれる、運動や習慣、学習などを担う重要な領域があります。この領域には、それぞれ異なる役割を持つ複数の神経回路が並列して存在し、多様な脳の働きを支えていることが知られていました。しかし、こうした並列神経回路が互いに混ざり合うことなく、どのように正確に作り分けられるのか、その仕組みは長年の謎でした。特に、神経細胞がどの相手と結び付き、どの回路を形成するのかを決める「分子コード(配線暗号)」は解明されていませんでした。神経回路がどのような仕組みで正しく組み立てられるのかを理解することは、脳の基本原理の 解明に加え、統合失調症や自閉スペクトラム症など神経・精神疾患の理解にもつながる重要な課題でした。
(2)新たに実現しようとしたこと、明らかになったこと
早稲田大学とハーバード大学の国際共同研究グループは、神経細胞どうしを結び付ける細胞接着分子である「PCDH17」と「PCDH10」という2つのタンパク質に着目しました。大脳基底核の神経回路を分子レベルで詳細に解析した結果、これら2つの分子が、それぞれ異なる神経細胞どうしの選択的な結び付きを促し、並列神経回路を正しく作り分ける「分子コード」として機能していることを世界で初めて明らかにしました。
特に、大脳基底核の主要な経路の一つである「間接路」※5を構成する神経回路を詳しく解析したところ、PCDH17とPCDH10は、それぞれ主に異なる神経細胞集団で発現する「相補的発現(互いに重ならない発現パターン)」を示していることが分かりました。さらに、同じ種類の分子を持つ神経細胞どうしが優先的に結び付く「選択的接続」 によって、複数の並列神経回路が互いに混ざり合うことなく正確に形成されていました。これらの結果から、「相補的発現」と「選択的接続」という二つの分子コードの仕組みが、大脳基底核における並列神経回路を構築する基本ルールであることを明らかにしました。
さらに、この分子コードが神経回路の形成に不可欠であることを確認するため、大脳基底核の間接路を構成する神経細胞でのみPCDH17またはPCDH10を欠損させた条件付き欠損マウス※6を作製し、脳の発達を詳しく解析しました。その結果、神経細胞から伸びる軸索※7は目的の場所まで正常に到達していましたが、最後に神経細胞どうしをつなぐ接続部(シナプス)※8を正しく形成できないことが明らかになりました。この解析により、PCDH17とPCDH10は神経回路の行き先を決めるのではなく、正しい相手と結び付き、機能する神経回路を完成させるために不可欠な分子であることが示されました。
加えて本研究グループは、間接路の神経細胞のみでPCDH17またはPCDH10を欠損させた条件付き欠損マウスを用いて行動を解析し、それぞれの並列神経回路がどのような脳の働きを担っているのかを調べました。報酬に応じて正しい選択を学ぶ課題では、PCDH17を欠損したマウスは新しいルールを習得するまでに時間がかかり(図1)、一度覚えたルールを新しいルールへ切り替えることも苦手であることが分かりました。一方、PCDH10を欠損したマウスでは、このような学習能力の低下は認められませんでした。これに対し、新しい環境や繰り返される音刺激に対して徐々に反応が弱まる「馴化(慣れ) 」を調べたところ、PCDH10を欠損したマウスでは馴化が十分に起こらず、新しい環境でも活動量が高い状態が続き、繰り返し提示される音刺激に対する反応も低下しませんでした(図2)。一方、PCDH17を欠損したマウスでは馴化は正常でした。以上の結果から、PCDH17は「学ぶこと」を支える並列神経回路を、PCDH10は「慣れること」を支える並列神経回路を、それぞれ正しく形成する分子コードとして機能していることが明らかになりました。
図1. 間接路 PCDH17条件型欠損マウスにおける課題学習障害
(A) 視覚弁別課題※9の模式図。報酬刺激(+)および非報酬刺激(−)※110を示す。
(B-C) 視覚弁別課題の結果。PCDH17条件型欠損マウスでは、正答率がコントロールよりも低下し、課題達成に要した総試行数も増加する(B)。PCDH10条件型欠損マウスでは、いずれもコントロールと差はない(C)。
図2. 間接路 PCDH10条件型欠損マウスにおける感覚の馴化障害
(A-B) 感覚馴化試験。最初の1-2試行の値で標準化した驚愕反応※11の時間経過(折れ線グラフ)と、試行初期(1–2回目)および試行終期(40–50回目)における驚愕応答の比較(棒グラフ)。PCDH17条件型欠損マウスとコントロールマウスは、試行終期において標準化した驚愕反応の低下がみられるが(すなわち馴化)、PCDH10条件型欠損マウスではこの馴化が認められない。
(3)研究の波及効果や社会的影響
本研究は、脳の並列神経回路が「分子コード」によって正確に作り分けられるという、新しい神経回路形成の仕組みを明らか にした成果です。脳が多様な機能を生み出す基本原理の理解に新たな視点をもたらすとともに、脳神経科学の発展に大きく貢献することが期待されます。また、大脳基底核の神経回路の異常は、パーキンソン病や自閉スペクトラム症、統合失調症など、さまざまな神経・精神疾患との関わりが指摘されています。本研究成果は、それぞれの疾患でどの神経回路に異常が生じているのかを分子レベルで理解するための重要な手掛かりとなります。将来的には、分子コードの仕組みを活用することで、異常が生じた神経回路を選択的に制御・修復する新たな治療法や創薬技術の開発につながることが期待されます。
(4)課題、今後の展望
今回の研究では、PCDH17とPCDH10が、大脳基底核の並列神経回路を作り分ける「分子コード」として働くことを明らかにしました。今後は、これら以外にも神経回路の形成を制御する分子コードが存在するのかを明らかにするとともに、この仕組みが大脳基底核以外の脳領域にも共通する普遍的な原理であるかを検証します。さらに、これらの研究を通じて、脳全体の神経回路がどのようなルールで組み立てられているのか、その基本原理の解明を目指します。将来的には、この分子コードの仕組みを利用して特定の神経回路を選択的に制御・修復する新たな治療法の開発につなげたいと考えています。
(5)研究者のコメント
今回の主要な成果は、「学ぶこと」と「慣れること」という異なる脳の働きが、それぞれ異なる分子コードによって作り分けられた別々の神経回路によって支えられていることを明らかにできた点です。複雑な脳の配線ルールの一端を解き明かすことができたことに、大きな手応えを感じています。今後、脳の仕組みの理解をさらに深めるとともに、神経・精神疾患の病態解明や特定の神経回路を標的とした新たな治療法の開発につながる基盤を築いていきたいと考えています。
(6)用語解説
※1 並列神経回路
異なる役割を担う複数の神経回路が、互いに混ざり合うことなく並行して存在し、それぞれ独立して情報を処理する仕組みです。大脳基底核では、学習や習慣など異なる機能を担う回路が並列して働いています。
※2 分子コード(配線暗号)
神経細胞がどの相手と結び付いて神経回路を作るかを決める分子の組み合わせや仕組みのことです。本研究では、PCDH17とPCDH10がこの役割を担うことを明らかにしました。
※3 大脳基底核
脳の深い場所にある神経回路の集まりです。運動の調節だけでなく、学習や習慣の形成、意思決定など、さまざまな脳の働きに重要な役割を担っています。
※4 プロトカドヘリン
細胞どうしが互いを認識して結び付くために働く細胞接着分子の一種です。神経回路が正しく形成されるために重要な役割を担っています。本研究では、PCDH17とPCDH10という二つのプロトカドヘリンに着目しました。
※5 間接路
大脳基底核を構成する主要な経路の一つです。行動の選択や不要な行動を抑える働きに関わり、学習や習慣の形成にも重要な役割を果たしています。
※6 条件付き欠損マウス
特定の遺伝子を、特定の種類の細胞だけで働かなくしたマウスです。本研究では、大脳基底核の間接路を構成する神経細胞でのみPCDH17またはPCDH10を欠損させました。
※7 軸索
神経細胞から伸びる細長い突起で、情報をほかの神経細胞へ伝える役割を担います。軸索の先端でシナプスを形成し、神経細胞どうしが情報をやり取りします。
※8 シナプス
神経細胞どうしが情報をやり取りするための接続部です。
※9 視覚弁別課題
異なる視覚刺激を見分け、正しい刺激を選ぶと報酬が得られる行動実験です。学習能力やルールの切り替え能力を評価するために広く用いられます。
※10 報酬刺激・非報酬刺激
実験で提示される二つの視覚刺激のうち、報酬刺激は選ぶと報酬が得られる刺激、非報酬刺激は報酬が得られない刺激です。動物は試行を繰り返しながら両者を区別し、報酬刺激を選ぶことを学習します。
※11 驚愕反応
突然の大きな音などに対して、体が思わずびくっと動く反応のことです。同じ刺激を繰り返し受けると反応は徐々に弱まるため、「慣れ(馴化)」の程度を調べる指標としても用いられます。
(7)論文情報
論文名:δ2-Protocadherins organize parallel indirect basal ganglia circuits
執筆者名(所属機関名):Naosuke Hoshina*, Joshua M. Boeckers, Erin M. Johnson-Venkatesh, Miyuki Hoshina, Kana Matsumoto, Abhijnana Das, Veronica R. Rally, Jaanvi Sant, Akiko Terauchi, Shinji Kinoshita, Takafumi Inoue, and Hisashi Umemori*
掲載日時(現地時間):2026/8/21(金) 14:00
掲載日時(日本時間):2026/8/22(土) 4:00
掲載URL:www.science.org/doi/10.1126/sciadv.aec8746
DOI:10.1126/sciadv.aec8746
(8)研究助成
研究費名: JSPS科研費(基盤B)
研究課題名:解剖学的・機能的に分割される大脳並列神経回路の分子基盤(JP24K02133)
研究代表者名(所属機関名): 星名直祐(早稲田大学高等研究所)
課題番号: JSPS KAKENHI Grant Number JP24K02133
研究費名: 公益財団法人 上原記念生命科学財団 研究助成
研究代表者名(所属機関名): 星名直祐(早稲田大学高等研究所)
研究費名: 公益財団法人 ブレインサイエンス振興財団 研究助成
研究代表者名(所属機関名): 星名直祐(早稲田大学高等研究所)
研究費名: 公益財団法人 内藤記念科学振興財団 研究助成
研究代表者名(所属機関名): 星名直祐(早稲田大学高等研究所)
研究費名: 公益財団法人 アステラス病態代謝研究会 研究助成
研究代表者名(所属機関名): 星名直祐(早稲田大学高等研究所)
研究費名: 公益財団法人 武田科学振興財団 研究助成
研究代表者名(所属機関名): 星名直祐(早稲田大学高等研究所)
研究費名:National Institutes of Health Grant (MH125162 and DA042744)
研究代表者名(所属機関名)梅森久視 (ハーバード大学ボストン小児病院)
研究費名:Simons Foundation Autism Research Initiative Grant (568285)
研究代表者名(所属機関名)梅森久視 (ハーバード大学ボストン小児病院)
研究費名:Harvard Brain Science Initiative Bipolar Disorder Seed Grant
研究代表者名(所属機関名)梅森久視 (ハーバード大学ボストン小児病院)












