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郡上八幡城 〝東軍vs東軍〟関ケ原の戦い前哨戦の舞台



今は「日本最古の木造再建城」として人気の郡上八幡城。関ケ原の戦い後、遠藤慶隆が初代郡上藩主として治めた。郡上八幡城の合戦では右側の搦手から金森軍が、吉田川を挟んだ左側の赤谷山方面から遠藤軍が攻め込んだ=郡上市八幡町(小型無人機より)

今は「日本最古の木造再建城」として人気の郡上八幡城。関ケ原の戦い後、遠藤慶隆が初代郡上藩主として治めた。郡上八幡城の合戦では右側の搦手から金森軍が、吉田川を挟んだ左側の赤谷山方面から遠藤軍が攻め込んだ=郡上市八幡町(小型無人機より)
記者独断の5段階評価

難攻不落度

二つの川と急峻(しゅん)な地形に加え、堀切(ほりきり)と石垣を効果的に配置した防御機能


遺構の残存度

東側には築城当時の石垣が残る。天守や城壁は昭和以降の再建


見晴らし

城から見下ろす城下町は〝魚の形〟をしている!?


写真映え

天守を背景に桜、新緑、モミジ、雪など四季折々の景色をパチリ


散策の気楽さ

頂上に駐車場あり。麓の城山公園から歩いて登ることもできる


 四季折々の風景美や雲海に浮かぶ「天空の城」として人気観光名所となっている郡上八幡城(岐阜県郡上市八幡町)。吉田川と小駄良(こだら)川の合流点近くの通称「城山」から、再建天守が今も「水の城下町」を見守る。

 永禄2(1559)年に遠藤盛数が砦(とりで)を築いたのが始まりとされ、明治初期に廃城令が出るまで存在した。その長い歴史の中で激戦の舞台にもなった。慶長5(1600)年、関ケ原の戦いの前哨戦の一つ「郡上八幡城の合戦」だ。

江戸期には郡上藩主の居城として幕末まで存在した郡上八幡城。現在の天守や櫓、城壁などは昭和以降に再建された(小型無人機より).jpg

江戸期には郡上藩主の居城として幕末まで存在した郡上八幡城。現在の天守や櫓、城壁などは昭和以降に再建された(小型無人機より)

 当時の城主は西美濃三人衆として知られる稲葉一鉄の息子貞通(さだみち)。石田三成が挙兵すると、岐阜城の織田秀信に従って西軍方として犬山へ向かった。その隙に、かつての城主遠藤慶隆(よしたか)が城の奪還を狙う。東軍に属して徳川家康の許可を得ると、金森可重(ありしげ)とともに攻め入った。郡上八幡町史や歴史書などによると、吉田川の対岸に陣を敷いた遠藤軍は同年9月1日、川を渡って城の正面から攻撃開始。金森軍は"裏口"の「搦手(からめて)」から進軍した。

「搦手の戦い」の舞台になったエリア。巨大堀切の近くには石垣の痕跡も残る

「搦手の戦い」の舞台になったエリア。巨大堀切の近くには石垣の痕跡も残る

 郡上八幡城の合戦で最大の攻防「搦手の戦い」の痕跡を探しに城山を歩いた。天守に向かう観光客の流れに逆らい、山頂駐車場脇から搦手側の遊歩道に入った。駐車場はもともと堀切だった。搦手側にはほかに、二つの出丸と三つの堀切があった。入ってすぐ左上部の平場は出丸跡。しばらく進むと、戦いの説明看板があり、石垣や土塁とみられる痕跡も確認。すぐ下は深さ50メートルほどの堀切。これら固い防御網に、金森軍にはおびただしい数の戦死者が出たという。

 合戦のその後。稲葉本軍が郡上に取って返し、攻撃を受けた遠藤慶隆は敗走。実はすでに稲葉が家康側に寝返っていたため、「東軍対東軍」の様相を呈した。関ケ原の戦いより前に和睦が成立となった。まさかの"同士討ち"だった前哨戦の爪痕は、今も森の中にひっそりと刻まれている。

郡上八幡城

【攻略の私点】近代戦の始まり告げる城

 昭和初期に木造天守が再建された郡上八幡城。江戸期以前の城の構造や機能について、地域史家の高橋教雄さん(76)=郡上市八幡町=に聞いた。

城郭の東側に残る築城当時の石垣(手前)

城郭の東側に残る築城当時の石垣(手前)

 二つの川に囲まれた急峻な山にあり、地形を生かしながら石垣と堀切を効果的に使って防御機能を構築している。正面となる西側は、谷を囲む二つの尾根線上にそれぞれ出丸が築かれ、侵入者を狙い撃つ。正面突破は極めて難しい。

 どの城も正面の防御は強固なため、裏側がどうなっているかが城の防御構造を見る上で一番重要。この城の"裏口"となる搦手は、連続する深い堀切と出丸が立ちふさぐ。そこを突破しても、松の丸から迎撃され、城内への侵入は困難。攻める側に勝機があるとすれば、出丸を孤立させることだろうか。

 深さ50メートルほどの堀切は、槍(やり)での戦いが主だった中世の山城としては珍しく、「鉄砲を主体にした戦い」への備えが見られる。槍と槍を交えるのではなく、鉄砲による近代戦の始まりを告げる「中世から近世へと橋渡しする位置づけにある城」と言えるだろう。




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