拘束、難破、無念の死―。1200年以上前、仏教の戒律を伝えてもらうため、唐から高僧・鑑真を招聘(しょうへい)し、日本を目指した岐阜県美濃出身の僧・栄叡(ようえい)。航海は失敗続きだったが、挑戦をやめることはなかった。詳しい実像が分かっていない栄叡とは、どんな人物だったのか。岐阜市歴史博物館(同市大宮町)で開催中の特別展「波濤(はとう)を越えて―鑑真和上と美濃の僧・栄叡-」で展示されている国重要文化財の東征伝絵巻(唐招提寺蔵)などから探った。
かんたん検索! 岐阜県・東海のイベント お出かけ情報総合サイト「ぎふっと!」奈良の興福寺の僧だった栄叡は733年に唐へ渡り、742年に揚州(現江蘇省)で鑑真と出会った。鑑真は当時すでに唐全土に名声が響く高僧だったにもかかわらず、栄叡らの熱意を受けて日本へ行くことを決心。しかし鑑真の弟子の中には渡日を阻止する動きもあった。5度の失敗のうち1、3、4度目は密告によって出航を止められた。東征伝絵巻には、当局から逃れるため池の中に隠れた栄叡が、引きずり出される場面も描かれている。
2度目は出航したものの難破。栄叡最後の航海となった5度目は、嵐に遭った末、長期間漂流するなど過酷を極めた。水が尽き、誰もが死を覚悟する中、栄叡は、一同を鼓舞するかのように「夢に官人が現れ、雨乞いに水を送るように命じた」と話した。すると翌日、本当に雨が降り、乾きを癒やすことができたという。そんな栄叡は、鑑真にとって頼もしい存在であっただろう。
一行は日本のはるか南、海南島に漂着。出発地の揚州へ引き返す道中の749年、栄叡は志半ばで病死した。「骨はたとえ土中の塵埃(じんあい)となったとしても、志はなお海東の戒法にある」。栄叡が、鑑真に伝えたとされる最期の言葉。唐に渡って16年、再び日本の地を踏むことなく、端州(現在の広東省)で力尽きた。
同博物館の中島雄彦学芸員は「海東は日本、戒法は鑑真を日本に連れて行って戒律を広めるという思いを表している。自身の死を悟ってもなお、高い志を持ち続けていることが感じ取れる」と解説する。
鑑真は嘆き、泣き叫びながら葬ったという。東征伝絵巻からは、悲しみに打ちひしがれる様子が分かる。それでも諦めなかった鑑真は753年、6度目の挑戦で渡日を果たした。
約1200年後の1995年、県内有志らが中国で栄叡の木像4体を制作。それを岐阜へ持ち帰ることで栄叡の"帰郷"を実現させた。特別展では、うち1体の栄叡坐像が入り口に鎮座。東征伝絵巻のほか、鑑真が日本にもたらした大陸文化の影響を受けた仏像や宝物も並ぶ。特別展の学術協力をした奈良国立博物館の井上洋一館長は「これらは、もし鑑真が日本に来られなかったら、存在しなかったかもしれないものばかり。そういう観点からも栄叡の功績に思いを巡らせてもらえたら」と話す。
特別展は11月23日まで。今月25日は休館し、展示品を一部入れ替えて26日から後期が始まる。













