尾根を断ち切る巨大な堀切。大手門があったとみられる=恵那市明智町、明知城跡
記者独断の5段階評価

難攻不落度

「堅い防御機能を備えるが、比高差は少なく傾斜も緩やか」


遺構の残存度

「防御設備の原形がそのまま残り、当時の戦略を今に伝える」


見晴らし

「木々の隙間から市街地や遠くの山々を望める」


写真映え

「畝状竪堀群や巨大横堀のスケール感は写真には収まらない!」


散策の気軽さ

「登城口は複数あり、本丸へ直行すればいずれも所要15~20分」


 戦国武将明智光秀の生誕地との伝説がある岐阜県恵那市明智町。街を見下ろす小高い丘山に、明知城跡がある。同じ読みで字が違う可児市の明智城と混同されがちだが、明知城は遠山明知氏の居城。鎌倉時代に遠山景重が築城したとされ、戦国の一時期を除いて江戸末期まで遠山氏が一帯を支配していた。

横堀の外側(左)には畝状竪堀群が張り巡らされている。残った山肌が畝のように盛り上がって残っていることが分かる

 大きな特徴は、城郭をぐるりと囲む横堀と、複数の竪堀からなる「畝状(うねじょう)竪堀群」を連動させた技巧的な防御の構造。今もその原形が山に刻み込まれている。

 複数ある登城口のうち、大手口とされる「陣屋跡」側から"攻略"を開始。5分ほど登ると、目の前には尾根を断ち切る巨大な堀切が現れる。ここに「大手門」があったとみられる。

 本丸に向かうルートをそれて、まずは最大の見どころである横堀の中を進む。人の背丈ほどえぐられた横堀から麓までは、数メートルおきに竪堀が張り巡らされている。畑の畝のように見える畝状竪堀群だ。逆に横堀から見上げれば、人工的な絶壁「切岸(きりぎし)」がそびえる。

落合砦付近から望む明知城跡(中央手前)。左右を南北街道、奥へ向かって中馬街道が通っている

 横堀を半周した後、山頂の本丸跡へと登る。北西に開けた本丸からは、眼下に旧明智町の市街地が広がる。そこは、信濃や三河につながる南北街道と中馬(ちゅうま)街道がクロスする"街道の交差点"。それゆえ東美濃を巡る織田と武田の攻防の最前線や、「小牧長久手」「関ケ原」といった大規模な合戦の戦場となった。城を守った遺構は"戦火の地"で生き抜く工夫を今に伝えている。

 恵那市内には、日本三大山城として名高く壮大な石垣を持つ岩村城もあるが、明知城には趣の異なる魅力があった。

【攻略の私点】堅い防御、弱点は「水路」

 東美濃の交通の要衝として幾多の戦場となった明知城について、恵那市教育委員会生涯学習課の三宅唯美(ただよし)さん(61)に聞いた。

  もともと急峻(きゅうしゅん)ではない丘に築かれた山城で、その全体に人が手を加えた痕跡が残る。  中腹を横堀が囲み、横堀からは複数の竪堀が落とされている。これほど大規模な「畝状竪堀群」は、県下ではあまり例がなく、貴重な城であると言える。

本丸跡には礎石も残り、御殿のような建物があったと考えられている

 比高差は80メートルほど。北側は斜面が緩やかだが、そこに畝状竪堀群が設けられ、防御網は堅い。最大の弱点は水がないことで、水路を断ってしまえば長期の籠城は難しいだろう。

 街道の交差点に立地しており、少なくとも4度の合戦の舞台になったことが分かっている。最大の戦いは、武田勝頼と織田信長の攻防。織田方の遠山一行(かずゆき)は籠城して武田に立ち向かったが落城した。その時、勝頼は(通称)愛宕(あたご)山、信長は鶴岡山に陣を構えたと伝わる。明知城の向かいにある落合砦(とりで)付近の展望台からは、城を挟んだ双方の山の配置も一望できる。