産婦人科医 今井篤志氏

 今や日本人の2人に1人はがんにかかり、男性の4人に1人、女性の6人に1人はがんで亡くなります。がん治療法は日進月歩しており、がんが消失しなくても(がんを抱えている状態でも)、長期間がんと共存できるようになってきました。しかし、がん治療中に体重が減り、特に骨格筋肉がやせて歩けなくなる状態に陥ると生存率が低下します。この状態を「がん悪液質(あくえきしつ)」といい、進行したがんの8割に認められます。

 体重減少は、摂食量が少ない絶食や飢餓でも認められます。胃全摘術の後でも空腹を感じますが、食べる量が減少し消化吸収が低下しているため、体重が減少します。一方、がん悪液質ではがん細胞から分泌される「炎症性サイトカイン」という物質などが、脳内の視床下部にある食欲中枢に作用し食欲を抑制します==。

 悪液質と飢餓や絶食との違いに、骨格筋肉量の減少があります。摂食量の少ない飢餓や絶食ではエネルギー貯蓄としての脂肪を分解し、生命維持に必要な心臓・呼吸・体温維持のエネルギー源として利用します。身体活動は低下しているので、安静時エネルギー消費は減少状態です。

 一方、悪液質では、脂肪組織の減少に加え、がん細胞からの炎症性サイトカインが筋肉を構成するタンパク質をアミノ酸に分解し、さらにブドウ糖に変換します。これが増殖旺盛ながん細胞のエネルギー源になります。安静時のエネルギー消費量も増加するため、本来は利用してはいけない骨格筋肉も浪費するという状態が悪液質の特徴です。体重減少の程度が大きいほど生存率が低下します。

 骨格筋肉が減少すると、転倒しやすい、歩行が困難になるなど、日常生活動作に支障が生じます。ますます身体が脆弱(ぜいじゃく)になり、生活の質が大きく低下します。この状態をサルコペニアといいます(ギリシャ語で「サルコ」は筋肉、「ペニア」は減少)。

 摂食障害と全身の炎症があり、次の①~③のいずれかに該当すると悪液質です。①6カ月以内に5%超の体重減少②体格指数{BMI、体重(キロ)÷身長(メートル)÷身長(メートル)}が20未満③サルコペニアで2%超の体重減少。この段階への進展を予防することが極めて重要です。

 がん細胞の塊の中から出血が起こることに加えて、ヘモグロビンの元になるタンパク質、鉄分、ビタミンなどが十分に摂取できなくなり、貧血が進行します。これを「がん性貧血」といいます。しかも炎症性サイトカインは肝臓で作られるタンパク質の生成を抑制し、貧血や体重減少の進行に拍車をかけます。すると、がん薬物療法の副作用を強めたり、治療効果を弱めたりします。

 がん悪液質と治療効果の低下という悪循環を断ち切る第一歩として、悪液質に対する薬剤の開発が進んでいます。その候補としてグレリンがあります。日本の研究者が発見したホルモンです。胃や腸などで産生され、視床下部に働いて食欲を増進し、下垂体からは成長ホルモンの分泌を亢進(こうしん)します。このグレリンの受容体に作用する薬剤が開発されつつあり、食欲の増進と筋肉の増加が確認されています。がん悪液質を早期から改善し、進行させないようにすることが、がんに打ち勝つ第一歩です。