2005年4月、オグリキャップの笠松里帰りでファンと交流する鷲見昌勇元調教師(右)

 「ファンのために負けることはできない」。バブル期、競馬ブームに火を付けて国民的ヒーローとなったオグリキャップ。ファンによる追っかけは既に笠松時代から始まっていた。キャップのことを最も知る鷲見昌勇元調教師。ファンが投じた夢馬券に1着ゴールで応え続け、中央移籍時には古馬並みの実力を備えた強いアイドルホースへと育て上げた。
 
 2005年4月、経営難で存続のピンチに立つ笠松競馬場の「救世主」として、オグリキャップの里帰りセレモニーが開かれた。鷲見さんは20歳になったキャップに大勢のファンとともに久しぶりに再会した。そのときの写真が1枚残っていたので見せると「キャップのファンの人や」とうれしそう。「オグリキャップ・新冠町優駿スタリオンステーション」のマフラータオルを手にした女性ファンとの記念撮影で交流を深める姿があった。

 ■秋風ジュニア、アンカツさん初騎乗で圧勝

 今夏も猛暑が続いているが、福島県の「相馬野馬追」では出場した馬2頭が日射病などで命を落とした。以前、笠松競馬場の装鞍所エリアでは炎天下、17時頃の気温が40度を超えていたこともあった。誘導馬エクスペルテとウイニーのパドック先導は早めに切り上げてもらえるようになったが、お盆開催などに出走する競走馬たちの日射病リスクには、ミスト噴射増強などの対策が必要になる。

 暑さに弱い競走馬だが、デビュー後のキャップは真夏の暑さにも食欲旺盛で、馬体の成長期に力をつけて連勝街道を突っ走った。
 

1987年8月30日の笠松9R「秋風ジュニア」の出走表など(競馬エース)。アンカツさん初騎乗のオグリキャップが圧勝した

 36年前(1987年)の8月12日、キャップは宿敵・マーチトウショウに3度目の対戦で初勝利。中央でタマモクロスを倒したのも3戦目だったが、笠松では既に「元祖・芦毛対決」の死闘が繰り広げられていたのだ。8月30日には初の1400メートル戦「秋風ジュニア」でアンカツさんが初騎乗。距離延長は望むところで、一桁違うような豪脚でマーチトウショウに4馬身差の圧勝。 対戦成績を2勝2敗とした。1~3着は人気通りで、枠連⑤⑧は220円という順当レースだった。

 人気のウマ娘では随一の「大食いキャラ」のキャップ。夏場も食欲が落ちることなく、飼い葉食いが良かったようだ。馬体重は6~8月の5戦で450キロから徐々に476キロまで増量させた。他馬は現状維持が精いっぱいだが、キャップはよく食べて体力を蓄えた。暑さにも強く、8月以降は8連勝で古馬も撃破。夏バテしない強みが成長力を高めて、快進撃を続けた。

1991年1月、笠松競馬場でのオグリキャップ引退セレモニーには大勢のファンが来場した(笠松競馬場提供)

 ■「命の次に大事な金を賭けてくれて、負けられない」

 それでも鷲見さんは勝ち続ける苦しみも味わったという。「キャップが連勝中は夜寝られなかった。ファンのことを思わないといけなくて苦労もしました」と本音を漏らしてくれた。
  
 「キャップは本命で、どの新聞を見てもグリグリの◎印だったので」。当時、笠松の競馬専門紙は4紙(エース、東海、競新、中部優駿)もあった。「ファンが命の次に大事な金を賭けてくれるわけで、負けることはできない。レースの前日はファンが厩舎にも多く来て、寝られなかったし、勝ちっ放しの間はあまり眠ることができなかった」と振り返った。

 勝利の喜びとともに、勝ち続けることでプレッシャーも感じていたのだ。「負けたらあかん。ファンに対して気の毒で。馬に何かあったら、すぐに飛んでいかないかんし寝られなかった」。中央デビュー後も重賞6連勝。「瀬戸口さん(調教師)も寝られなくて、大変やったと思うよ。天皇賞でタマモクロスに負けてちょっと楽になったのでは」。競走馬とは、ファンの思いも背負って走ってくれているのだ。キャップの引退レースでもファンが背中を押してくれたのだろう。

笠松競馬の円城寺厩舎。昨年前半にはキャップの孫娘・レディアイコも在籍していた

 ■「キャップやローマンを見に、高校生のファンも厩舎へ来た」

 中央では有馬記念のラストランなどで、ぬいぐるみを抱えた若い女性らの姿が印象的だったが、笠松時代からキャップのファンはすごかったという。
 
 「自分はお金はもうからなかったが、そりゃ、ファンが厩舎などに来づめやったから。ピークの頃は、高校生まで見学に来ていた。夜でも学校帰りにね。キャップがレースで走りだしてからは他の馬も続いて勝ったから。ファンが来て来て、昔は厩舎にも入れていたからね」とフィーバーぶりを肌で感じたという。あの伝説のオグリコールの3年も前のことだった。笠松のような地方競馬では、自分の足で競馬場へ来て好きな馬を応援するしかなかった。ファンの厩舎エリアへの立ち入り規制は緩かったようで、スタンドだけでなく、馬房での応援も熱かったのだ。

 引退の2年後には、笠松競馬場正門横にキャップの銅像もできた。「奈良から来た高齢女性2人が笠松駅から電話をかけてきたので、案内して銅像を見せ、厩舎にも連れてきた。ファンはお年寄りから学生まで幅広く、キャップやローマンを見に来た」と鷲見さん。当時のファンは今よりも熱狂的だった。1980年代後半~2000年頃は笠松でデビューした若駒が、中央へもチャレンジしてすぐに重賞を勝つ時代でもあった。

 ノーザンファームのような巨大牧場の生産馬が毎週のようにGⅠレースを勝つ近年の日本競馬。そんな中で、稲葉牧場のような小さな生産牧場で生まれた馬が、地方競馬から中央競馬へと駆け上がって頂点を目指す。そこにはコツコツと働く庶民の夢が詰まっているようで応援したくなる。

笠松から中央へ移籍し、有馬記念を2度も勝つなど出世馬となったオグリキャップ

 ■「調子はどうや」とマスコミの取材もすごかった

 キャップが中央へ行く前から、マスコミの取材もすごかったそうだ。「夜遅く0時すぎからも『調子はどうや』とか電話がかかってきた。早く寝ないと朝起きられないし(3時から調教)。こっちに娘ら家族もいたので『何か事故でもあったのでは』と心配させられた。夜中に電話がかかってくるのは本当に嫌だったな。キャップだけでなく、他にも走る馬がいたから。雑誌やNHKなどからも電話があった」

 当時、笠松の古馬ではフェートノーザンなど活躍馬はいっぱいいたが「強い馬をよそから買ってきたら、笠松でも走って当たり前。ここで育った馬じゃない。俺はそうではなくて、笠松でデビューした生え抜きを育てて、東海で走るダート馬をつくることが目標だった」と力を込めた。地元の調教師としての意地もあって、新馬戦から育成に力を入れたのだ。

北海道の稲葉牧場で生まれたオグリキャップ。幼名はハツラツと呼ばれていた

 ■「250万円」で買った馬が「9億円以上」稼いでくれた

 地方競馬では馬探しでも、見る目が確かな調教師の影響力が大きい。鷲見調教師が小栗孝一オーナーに頼んで、稲葉牧場にホワイトナルビーを預け、種付けをしなかったら、キャップは誕生していなかった。2人は同じ郡上市出身の名コンビで、キャップの活躍とともに笠松競馬の名を全国にアピールした。

 「こっちが預けている馬なんで、種付け料(キャップは50万円)を払って何々を付けてほしいと指示すれば、牧場の方でそれに従ってやってくれた」。キャップの購入では、当初150万円を稲葉牧場に出して笠松に連れてきた。レースで走って勝ちだしてからは、よく走るんで小栗さんに『かわいそうやで、稲葉にもう100万円出してやってくれ』と牧場に行った時に頼んだ。そうしたら「いいよ」と言って小栗さんは気前良く出してくれたという。

 こうしてキャップは合わせて「250万円の馬」になった。その馬が9億円以上を稼ぎ出す「芦毛の怪物」とも呼ばれる名馬に大化けしたのだ。馬券に換算すれば「250万円→9億1251万2000円」で、キャップを購入して「単勝365倍の万馬券」が大当たりしたことにもなる。

 ■どこへ行っても「あー鷲見先生」と顔を知られて

 キャップの初代トレーナーとして、鷲見さんの人生は変わったのか。「 キャップにはファンがどえらい付いていたから、俺もどこへ行っても顔を知られてしまっていて、悪いことはできなかった。もちろんしようとは思わなかったが」と 笑いながら答えた。「競馬関係者やファンが『あー鷲見先生』と言ってくるから 。キャップが出走していなくても、小倉競馬場へ見に行った時にもスッと見て言われたからね」 

自然環境に恵まれた郡上市の実家で元気にお暮らしの鷲見昌勇元調教師

 ■体重管理で「1週間何にも食べなかった」

 鷲見さんは現在、自然環境に恵まれた郡上市の実家で元気にお暮らしだ。野菜作りなど簡単な畑仕事ぐらいはできるようだが、腰が弱って、つえなしでは長く立っていられないとか。ジョッキー時代にはステッキを手に、トレーナー時代にはキャップの手綱を持って元気とパワーを受け継いだ。今もキャップの息遣いや力強い走りが、生命力の源になっていることだろう。 
           
 ジョッキー生活は34歳までで意外と短かった。体が大きい方で「減食がえらかった」ためという。レースで騎乗するためには、厳しい体重管理との闘いもジョッキーとして長く続ける条件になる。

 鷲見さんは「1週間何にも食べなかったりで、汗取り(減量でサウナに入ること)などで苦労した」という。ジョッキーとして生き残るため、調整ルームなどのサウナでは「腹をタオルで縛って、洗面器で水を1杯飲むと3倍ぐらい戻ってくる。汗を流して取って減量に励んでいた」と過酷な日々を振り返った。

 ■空腹時は「サイダーに卵の黄身1個入れて」

 厳しい減食のため、空腹時には「一番腹が膨れるには、サイダーに卵の黄身1個入れてコップに1杯飲むのが良かった 。減食中は水を1杯飲んだだけで1キロぐらいビュッと増えるから水も飲めない 。馬に乗っていても脱水症状で手が伸びないし、手綱を持ち替えることができない。足もつってしまって、えらかったので騎手免許を返した」という。

 「当時初出走する馬は、3歳牝馬の負担重量が50~51キロで、自分の体重が47キロぐらいでないと乗せてもらえなかった」。現在より4キロほど軽く、体重調整は過酷だった。プロボクサーと同じように減量の苦しみを味わったが、ジョッキーはボクサーのようにクラスを上げて「4階級制覇を目指す」などということが許されず、厳しい自己管理が求められる。笠松でも中堅ぐらいで「体重オーバー」のため調教師や調教助手に転身したジョッキーも多くいた。         
 

1990年6月、宝塚記念でパドックを周回するオグリキャップ。レースでは伸び切れず2着に敗れた

 ■「馬体が寂しく、こりゃきょうは走らんぞ」

 90年有馬記念でのキャップのラストランでは「武豊が乗って勝つと思っていた」と回顧。JRAで走るときは小栗オーナーらと毎回見に行った鷲見さん。パドックなどでキャップが周回する姿を見て「勝つ」と感じたことが多かったが「これは駄目だ」と思ったレースがあったそうだ。

 鷲見さんの記憶では「ゼッケンが1番で、馬体重が前走と同じ(496キロ)だった」ということで、どうやら89年の有馬記念とみられる。「こりゃきょうは走らんぞ」と直感し、夜のネオンもちらつかなかったようで「小栗さんらには言えなかったが、同じ馬体重でも寂しく感じ、ピッときた」と敗戦を覚悟した。
 
 「そうしたらやっぱり負けた」とキャップは最後の直線でまさかの失速。平成3強のイナリワンが差し切り、スーパークリークが2着。キャップは初めて馬券圏内から外れ、5着に敗れた。小栗さんも佐橋五十雄前オーナーも勝てると思っていたようで「何があったのか」と結果が信じられない様子だったという。 

 この頃のキャップの馬主は3代目の近藤俊典オーナーで、トレード金は2年間総額5億5000万円とされるレンタル移籍 。89年前半は右前脚のけがで休養。このため秋以降にオールカマーから有馬記念まで99日間に6戦という超過酷なローテーション。マイルCSからジャパンCへのG1連闘後となった有馬記念。さすがにタフなキャップも疲れ切っていたのだ。

馬房内のオグリキャップ。中央競馬移籍後にGⅠで4勝を飾った

 ■「息を入れな駄目だわ、つぶれてしまうぞ」と訴え

 キャップ完敗後、鷲見さんは「やっぱりあかんな。きょうは馬体が寂しかったので走らなんだ」。馬体重は変わらなくても、キャップを知り尽くしている初代トレーナーの目には馬体の張り、毛づやなどが良くないと映ったのだ。
 
 レースでは秋から6戦目という「鬼ローテ」で、南井克巳騎手がまさかの先行策に出た。2番手から最後の4コーナーで先頭に立ったが、余力がもう残っていなかった。それまで後ろから来た馬に差されたことがなかったが、初めて抜かれて、掲示板確保(5着)がやっとだった。
 
 名古屋ウインズで観戦したアンカツさんは「無理に前へ行かず、最後の直線勝負で瞬発力を生かせば勝てたのに」とかつての主戦として先行策を残念がった。

 キャップが引き揚げてきて、鷲見さんは「預かっていた瀬戸口調教師は優しくて、オーナーによう言わないから。『息を入れな駄目だわ、休ませないかんわ。つぶれてしまうぞ』と佐橋さんに言ったんや」と憤り、悔しさをにじませた。 

 キャップは国民的アイドルホースとして人気沸騰。キャップのぬいぐるみを抱えた女性ファンが競馬場に殺到した熱い時代。その一方で「トレード金回収のため酷使されたのでは」というファンの声もあった 。鷲見さんは「使って使って、キャップも疲れてしまっていた。笠松でのレース間隔よりひどい使いようやった」。レース後の状態も見てからも「爪がすり減って、パンクしてしまう」と休ませることを訴えた。

 漫画「ウマ娘シンデレラグレイ」では、ちょうどGⅠ連闘で2着だったジャパンCが終わり、問題の有馬記念を迎えるが、どう展開するのか。もし笠松時代の北原穣トレーナーが、再びパドックなどで登場したとしたら、鷲見トレーナーだと思ってもらって間違いない。漫画の中でもぜひ姿を見せてもらい、笠松時代のトレーナーとして、悲痛な訴えを発してほしいものだ。

1990年12月、ラストランとなった有馬記念を制覇したオグリキャップと武豊騎手

 ■中央デビュー時にほぼ完成していた「笠松発のドリームホース」

 「それで、息を入れたんや」とキャップはその日のうちに温泉療養施設へ移送された。やはりパドックで先生の見る目は確かだった。キャップの中央入り後も初代トレーナーとして、三浦勝装蹄師とともに愛馬のコンディションを見守り続けていたのだった。

 「中央デビュー時にほぼ完成されていた馬」と騎乗した河内洋騎手も認めていたように、キャップは笠松時代の12戦で急成長。鷲見調教師をはじめ、安藤勝己騎手、三輪装蹄師ら笠松のホースマンたちが仕上げて、中央の舞台へと送り出した「笠松発のドリームホース」だった。

 中央では20戦12勝。実況アナもその力強い走りに興奮して、一人のファンとなって「先頭に立った、オグリキャップ頑張れ」とか「さあ、頑張るぞオグリキャップ」などと応援。どのレースもファンの胸に強く突き刺さった。結果は分かっているレース実況だが、何度見直して聞いてみても鳥肌が立ってくる。キャップはいつもドラマチックなレースで、ハラハラドキドキの名勝負をファンに見せてくれたのだ。(次回に続く)


 ※「オグリの里 聖地編」好評発売中、ふるさと納税・返礼品に

 「オグリの里 笠松競馬場から愛を込めて 1 聖地編」が好評発売中。ウマ娘シンデレラグレイ賞でのファンの熱狂ぶりやオグリキャップ、ラブミーチャンが生まれた牧場も登場。笠松競馬の光と影にスポットを当て、オグリキャップがデビューした聖地の歴史と魅了が詰まった1冊。林秀行著、A5判カラー、200ページ、1300円。岐阜新聞社発行。岐阜新聞情報センター出版室をはじめ岐阜市などの書店、笠松競馬場内・丸金食堂、名鉄笠松駅構内・ふらっと笠松、ホース・ファクトリーやアマゾンなどネットショップで発売。岐阜県笠松町のふるさと納税・返礼品にも加わった。