萬サの舟で夜川網漁をする和田政美さん(右端)ら=5日、郡上市八幡町稲成、長良川

 橋を渡る長良川鉄道の窓明かりが、宵闇の川面を照らし出す。日が暮れて釣り人が去った川岸で、一艘(そう)の小舟が出番を待つ。

 「大稲(おおいね)」と呼ばれる漁場を前に、護岸の上で仲間と談笑していた和田政美さん(50)=岐阜県郡上市八幡町=が、おもむろに手のひらをにらんだ。筋が見えないほどの暗さが、夜川網漁の始まりの目安。「そろそろ行こか」

 

 乗り込んだ川舟は、もとは職漁師として名をはせた故古田萬吉(1908~1992年)が晩年、現在の美濃市立花の舟大工に造ってもらったものだ。十数枚の水揚げした網を置けるよう、幅広にしてある。数年前まで、息子の勲さん(75)=八幡町=が使っていた。

 「萬サ」と呼ばれた萬吉は、「川の渡世人」を名乗り、竿(さお)と舟だけで身を立てた。春はアマゴ、夏は鮎。「出合」と呼ばれる長良川と吉田川の合流点に舟を浮かべた。肺を患って退院した直後の夜川網で1000匹超を掛けるなど逸話には事欠かない。

 勲さんは中学生の頃、学校から帰ると、吉田川で遊ぶ同級生をよそ目に夜川網の支度をし、漁を手伝った。「父親はあれこれ言わん。けど、網の入れ方が悪いと、櫂(かい)で頭をパーンや」

 夜川網は、暗くなって淵で休む鮎を捕らえる漁法。まばゆい明かりと、船べりをたたく音で鮎を驚かし、囲むように事前に流し入れた網へと追い込む。網を張る場所は、昼間の観察がものをいうのだという。「魚が飛ぶやろ。ポーンと飛ぶのは雑魚。鮎がおると、水面がボコボコッとなるんや」

 こうした夜川網の技法を受け継ぐ和田さんは、妻のナオミさん(48)が萬サの孫なので、勲さんとは親戚にあたる。自らも小学5年で舟を操り、川に親しんできた。

 この晩は今季3回目の漁。「はかり岩」の周囲に張った8枚の網を引き揚げると、8人で外しにかかった。手伝うのは30~50代の仲間たち。萬サのひ孫で中3の暖佳(ほのか)さん(15)も「漁を見るのも、外すのも楽しい」と加わる。捕れた約300匹の鮎は、均等に分けられた。

 「みんなが喜んでくれたらええ」と譲られた舟が、萬サの没後30年を経ても漁をつなぎ、人を寄せる。「楽しみながら、伝統漁法をこの先も続けていきたい」と和田さん。漁は鮎のたまり具合を見ながら、10月まで続く。