大垣市西部を流れる杭瀬川。当時は流域が違い「杭瀬川の戦い」の具体的な合戦場所は分かっていない
大垣市立図書館が所蔵する「関ケ原御闘戦東照大神君赤坂御陣営諸将陣取図」(複製)。中央の岡山周辺には福島正則や池田輝政ら有名武将の名前が並ぶが、いずれも垂井・関ケ原方面を向いていることが読み取れる
大垣城内に展示されている「杭瀬川の戦い」のジオラマ=大垣市郭町
野一色頼母の亡きがらが埋葬されたと伝わる「兜塚」=大垣市赤坂町
杭瀬川堤防沿いに立つ戦いの説明板=大垣市南一色町

 「関ケ原の戦い」前日の慶長5(1600)年9月14日、東軍を率いる徳川家康は西美濃の岡山(現在の勝山、大垣市赤坂町)に着陣した。大垣城にいた西軍指揮官の石田三成との距離はわずか4キロほど。やがて両将の目前で“最後の前哨戦”が始まった。三成の軍師・島左近の活躍で知られる「杭瀬川の戦い」だ。米野や岐阜城での前哨戦で敗北続きだった西軍に、勝ち戦をもたらした。

 大垣市西部を流れる杭瀬川。同市南一色町付近の堤防には戦いについての説明板が立っている。赤坂町方面に目をやると、家康が陣取った岡山もわずかに見える。諸資料によると、同日昼ごろ突然岡山に徳川ののぼり旗が立ち並ぶと、大垣城の三成陣営に緊張が走ったという。すぐに左近が出撃した。

 

 市立図書館には、江戸期に作成された「陣取図」が残る。杭瀬川河畔の西軍陣形には左近のほか宇喜多秀家配下、明石全登(てるずみ)らの名が連なる。対岸(東軍側)には中村一栄の家臣・野一色頼母(のいっしきたのも)。その下に「討死」の文字も読み取れる。

 左近は、ひそかに杭瀬川を渡り、敵陣前で稲を刈って挑発した。東軍の中村、有馬豊氏隊が攻めかかってくるとわざと退却。敵が川を越えて追ってきたところを、待ち伏せしていた明石隊とともに強襲した。辺りは湿地帯で、東軍は足をとられて身動きできず、壊滅状態に。岡山から様子を見ていた家康は、本多忠勝を送って急いで兵を引き揚げさせたという。

 「陣取図」では、左近らの陣形横に「首三十二級討取」との記述。決戦前夜、西軍陣営の士気は大いに高まったことだろう。

 大垣市郭町の大垣城。現在の天守内には「杭瀬川の戦い」を表現したジオラマが展示されている。人形をよく見ると、やりを交えたり、討ち取った首を持つ兵の姿。細かい描写で、戦場の様子を立体的に感じることができる。

 一方、赤坂町の旧中山道沿いには、最前線で戦った東軍の野一色頼母が葬られたと伝わる「兜(かぶと)塚」がある。こんもりとした塚の上には立派な碑。天下分け目の決戦を前に散った武将の足跡をひっそりと伝えている。

【勝負の分岐点】「関ヶ原」前日、自軍を鼓舞

 天下分け目の決戦前日に起こった「杭瀬川の戦い」。東西両軍に与えた影響について、大垣市立図書館・歴史研究グループ専門員の坂東肇さんに聞いた。

 両軍とも本気でやり合う気はなかった。石田三成は、こんなに早く徳川家康が西美濃に到着するとは思っておらず、かなり動揺しただろう。島左近はそれを感じ取り、自軍を鼓舞しようとした。結果、30余の首を持ち帰り、その目的は見事に果たしたと言える。

 左近のさすがの策略。岡山から見ていた家康は「深追いするな。川を渡ったら負けるぞ」と叫んだという逸話も残る。それでも現場の武将たちは、まんまとわなにはまってしまった。

 家康が兵を引かせたため西軍の勝利というかたちになったが、この一戦が「関ケ原」本戦に何か直接的な影響を与えたということはない。ただ、岡山周辺の家康軍は、福島正則や池田輝政らほとんどが豊臣恩顧の武将たち。家康としては、ここで下手を打つと彼らに集団離反されるという不安は抱いたと思う。だからこそ、一番信頼する本多忠勝を送って収束を図った。

 なお、当時の杭瀬川は現在と流路が異なっており、具体的な合戦場所は特定されていない。

 島左近 「(石田)三成に過ぎたるものが二つあり 島の左近と佐和山の城」とうたわれ、たたえられた軍師。関ケ原の戦いでは、笹尾山の三成軍の前方に布陣し、黒田長政や細川忠興勢を何度も押し返す奮闘を見せた。黒田の鉄砲隊に奇襲され負傷すると、徐々に劣勢となり、乱戦の中で討ち死にしたとされる。