岐阜高島屋(岐阜市日ノ出町)が7月31日、閉店しました。1977年の開店以降、柳ケ瀬のシンボルの一つとして親しまれてきました。その閉店は柳ケ瀬が新たな時代に突入することを意味します。岐阜高島屋最後の1日の柳ケ瀬をタイムラインでお伝えします。
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岐阜高島屋は閉店セレモニーを行いました。橋本逸郎社長が「長年に渡るご愛顧ありがとうございました」とあいさつすると、店の前を埋め尽くした人たちから「ありがとう」と歓声がわき、拍手が起きました。
セレモニーを見ていた女性(70代)は今日1日で、3回来店したそうです。「企画展や物産展、いろいろ楽しかったなぁ」。
閉店セレモニーは、自分の中でけじめをつけるために来たそうです。「正直さみしい」と漏らしました。
これで47年続いた岐阜高島屋は幕を降ろしました。
【午後7時ごろ】
岐阜高島屋の閉店セレモニーが7時半から始まるようです。
劇場通は人で埋まってます。警察官が「もう通れません、迂回してください」と誘導しています。
【午後6時半ごろ】
岐阜高島屋、閉店まで30分となりました。大勢の人が集まってきています。皆さんスマホで写真を撮っています。「まぁそろそろか」などと声が聞こえます。
【午後6時ごろ】
岐阜高島屋隣のグラッスルの広場で、パネルディスカッションをやってます。高松丸亀町商店街振興組合の理事長を招いて、アフター高島屋を議論してます。
耳を傾けてみると…
「どの町にも必ず若い優秀な人がいる」「スキルの高いプロを生かす」など。なるほど。
こういうオープンな議論の場はこれまでもあったのでしょうか。
高島屋の閉店は終わりではなくて、新しい始まりなのだ、とのメッセージを感じられます。
【午後5時半ごろ】
岐阜高島屋南にある金公園で子どもたちを遊ばせていた市内の女性(30代)は、閉店を知らなかったといいます。
「母が高島屋の今川焼(大判焼き)を好きで、買いに来たけど1時間待ちなので諦めました。小さい子たちもいるし」。
岐阜高島屋は何回も来ましたが、最近は足が遠くなっていたそう。「玉宮なら行くけど柳ケ瀬は来ない。久しぶりに来たら「ドン・キホーテ(柳ケ瀬店)」もなくなっててびっくり」
【午後5時ごろ】
岐阜高島屋の平和通りを挟んで斜め向かいの広瀬靴店金町支店。お店の女性(60代)は「残念で仕方ありません」と話します。
創業70年以上。「高島屋の帰りに寄るお客さんもいますから、影響はあるかも」。
自身も結婚するときは、高島屋の結納部にお世話になったとか。人生の節目には高島屋があったといいます。
「本当にさみしい限り。食料品売り場がなくなるのが心配。小さくてもいいので、新しくそういうのができるといいんですが」
【午後4時半ごろ】
よく見ると、岐阜高島屋屋上の看板に足場がかかってます。閉店後はすぐ撤去されるのでしょうか。営業終了まで、あと2時間半です。
【12万人が訪れたオープン初日】
1977年9月23日にオープンした岐阜高島屋。オープン初日、何人来たと思いますか? 岐阜日日新聞(現・岐阜新聞)の記事によると、12万人だそうです。
翌9月24日(土)は新聞休刊日で、25日の県内版に「初日、12万人が入場 岐阜高島屋がオープン」の記事が掲載されました。
記事を再掲します。この12万人は、岐阜高島屋最後の日が来るなんて想像もしてなかったでしょう。
◆
本格的な都市型百貨店として話題の岐阜高島屋(岐阜市日ノ出町)が23日から岐阜・柳ケ瀬で華麗にオープン。予想以上に人気を呼んで、連日大にぎわい。
同店によると、23日の入場者は当初の予想を2万人も上回る12万人。売上高も1億5千万円に上った。開店前、23日から25日の3日間の入場者を30万人とみていたが、24日も約10万人で、この分だと予想を大幅に上回るという。
初日の23日はふだんより1時間早い午前9時にスタートしたが、開店前にすでに1千人が待機。店員の待機で列をつくったが、入り口の平和通り側は満杯。「く」の字型に曲がって日ノ出町通り側にも並んだ。ファンファーレが鳴り、1千個の風船玉が飛び、3個のくす玉が割れるとようやくオープン、待ちかねるように店内に飛び込んでいった。
各階とも連日大にぎわいだが、10階の催し場、11階の食堂街などは特に人気で満員。一方、ビルの1、2階にある「バラのひろば」も評判は抜群で、買い物客があちこちに集まり、楽しく憩っていた。
【1977年9月23日付の新聞】
ところで、岐阜高島屋がオープンした当初はどんな1日だったのでしょう。当時の記事を調べてみると、きょうとはまた違った大騒ぎの1日だったようです。
岐阜高島屋は1977年9月23日にオープンしました。当日の岐阜日日新聞(現・岐阜新聞)に全面広告が出ています。「『バラのひろば』とともに タカシマヤきょう9時誕生」。広告の写真にもバラを使っています。当時、岐阜県民に高島屋はあまり知られていなかったのかもしれません。「はじめまして バラのタカシマヤでございます」というあいさつ文からも、バラをシンボルに浸透を図ろうという意図がうかがえます。
強力なライバル登場に、周辺の小売店も警戒していたのでしょう。オープン当日23日付の新聞には「岐阜近鉄百貨店」「パルコ」「ダイエー」の大きな広告も掲載されています。「岐阜近鉄」の広告にはなんと「祝・岐阜高島屋-開店おめでとうございます。」とメッセージ入り。余裕を感じられる一方、「大京都展」を開いて舞妓さんを呼ぶなど力も入っています。
結果から言うと、この2百貨店が柳ケ瀬の大きな人の流れをつくった時代が確かにあったのです。高島屋を残し、今はどれも岐阜の町からは姿を消してしまいました・・・。
【午後1時過ぎ】
岐阜高島屋の北にある無印良品、岐阜高島屋閉店後も残ってくれます。
お店から出てきた親子連れに聞きました。岐阜市内にお住まいの母親(48)は学生時代、頑張って7万円のコートを岐阜高島屋で買ったのが思い出深いとか。コートは今も手元にあるそうです。
息子さん(14)は岐阜新聞の広告を見て、初めて岐阜高島屋に来店したそうです。「スゴかった」と感想を話してくれました。
岐阜高島屋が閉店後も柳ケ瀬に買い物に来ますか?との質問には「そもそもあまり柳ケ瀬に来ないので…」。ただ、無印良品が残るのは「岐阜の町のためにはよかったと思います」。
【正午ごろ】
岐阜高島屋から平和通りを挟んで西側の中華そば「丸デブ総本店」。高島屋に来たら「丸デブ」、という人も少なくないのでは。今日も行列ができています。
列に並んでいた名古屋市の女性(70代)は、初めて岐阜高島屋に来ました。
昔、夫の転勤で名古屋から柳ケ瀬に引っ越し、2年間住んでいました。名古屋に戻った後、岐阜高島屋が開店。47年前のことです。「ずっと岐阜の高島屋に来てみたかった」といいます。いつでも来られると思っているうちに、最後の日を迎えてしまい、一念発起して駆けつけました。ご主人は「暑いから」と遠慮。一人で来ました。
丸デブも初めて。腹ごしらえをしてから高島屋に戻り、買い物を続ける予定です。
「やっぱり町からデパートがなくなるのはさみしいわね」
【午前11時半ごろ】
岐阜高島屋から一本北の柳ケ瀬本通りは平日ということもあって、混んではいません。
そこで出会った女性(73)は「柳ケ瀬が衰退していると書く岐阜新聞とかメディアが悪い!言葉は大事やよ!」と怒ります。「クラウドファンディングすれば、いくらでも協力が集まったはずや。なんでやらんかったの!」
長年柳ケ瀬で商売してきました。柳ケ瀬の商店主の中には、次の世代が大企業などに就職して、跡継ぎがいないところが少なくないといいます。岐阜高島屋の閉店がきっかけになって、そういった問題が出てくるのが不安だそうです。
「高島屋には感謝してるし、柳ケ瀬が大好き」。若い人たちの活動を応援しているそうです。
【午前11時ごろ】
近くの女性(73)は最後の買い物としてお刺身を購入しました。「魚の質が良くて、便利でよかった。明日からどうやって生きていこう」
開店当初から通っているといい、閉店を聞いて思い出したのは「初代店長の大木さん」。大阪出身の恰幅(かっぷく)のいい人で、大阪商人という感じだったといいます。「お元気かしら。もう亡くなってみえると思うけど」
【午前10時45分】
岐阜高島屋周辺にはたくさんの自転車が駐輪されてます。ざっと300台以上でしょうか。続々と自転車の来店客が訪れます。
平日ということもあるのでしょうが、岐阜市中心部の人にとっては、欠かせない町の一部だったのでしょう。
【午前10時過ぎ】
近くのグラッスルの広場のベンチで、女性2人が談笑してました。70代と80代のお二人。岐阜高島屋から歩いて数分のところにお住まいで、今日初めて会ったそうです。
「便利は便利だった。アーケードで傘がいらなかった」と80代の女性。70代女性は閉店発表後、「友の会」のポイントをたくさん使ったそうです。
高島屋がなくなった後も柳ケ瀬で買い物しますか?との質問には2人とも「うーん…」。生鮮食品を買う場所が少ないのがネックのようです。
【午前10時】
岐阜高島屋、最後の1日が始まりました。
開店前から長い行列が岐阜高島屋の前にできました。ざっと見て500人以上でしょうか。3世代で並ぶ人たちも多いです。
「記念に配るバラのプレゼントは先着分終了しております」と係の人。行列を写真に撮る人も多くいます。