岐阜市から谷汲山華厳寺への巡礼路がかつてあった、と思われます。証拠はJR岐阜駅の前に立っています。ですが、記録が見つかりません。では、歩いてみるしかありません。巡礼路が世界的にブームと言われています。岐阜の消えた巡礼路をたどってみると、記録に残らない岐阜の歴史が見えました。
証拠はJR岐阜駅のバスロータリーの中にあります。高さ1・8メートルほどの石碑です。「谷汲山へ六里」と刻まれています。六里、約24キロです。側面には「上加納詠歌連」「明治三十五年二月建立」とも。
明治35年(1902年)に谷汲まで鉄道は通っていません。谷汲線が開通するのは大正15(1926)年。何のための石碑でしょうか。岐阜市から谷汲までの徒歩の巡礼者のためではないでしょうか。
「岐阜町や加納宿からの道もあったはず」と話すのは岐南工業高校常勤講師の浅野伸一さん(69)です。地域の歴史に詳しい浅野さん。「西から来る人は大垣市の赤坂から谷汲へ。東から来る人は加納宿から長良川を渡っていったと思われます」。しかし、正式なルートは特定されていないとのこと。「歩いてみないと分かりません」。
◆本来は赤坂ルートがメイン
谷汲山華厳寺へのメインの巡礼ルートは赤坂発です。約1200年前、京の都から奥州へ向かっていた観音像は大垣市赤坂から北へ向かって自ら歩き出し、谷汲で歩みを止め、そこに谷汲山華厳寺ができたと伝わっています。その道筋には道標も多く残っています。谷汲山は「西国三十三所観音巡礼」の結びの地。関西方面からの巡礼客が多かったのでしょう。
江戸時代、街道も整備され、お伊勢参りなど寺社参詣が盛んになったことから、江戸など東国からも寺社へお参りに行く人たちが増加。それに伴って加納宿から谷汲への巡礼路ができたと考えられます。
それではこの「加納ルート」をたどってみることにしましょう。11月のある日に後輩のナガヤ君と挑戦しました。
午前7時 JR岐阜駅の「谷汲山へ六里」の石碑前からナガヤ君と出発です。JR岐阜駅中央南口を抜けて、まず、加納宿の立花屋を目指します。今は薬局ですが、ここは江戸時代には旅籠だったそう。この立花屋の前に確認したいものがあるのです。
午前7時20分 JR岐阜駅の南を200メートルほど進み、旧中山道を左折、東へ進みます。土曜日の朝ですがパン屋や喫茶店は開いています。住宅街のどこからか朝ご飯のいい匂いも漂ってきます。
午前7時40分 団子屋を北に曲がり、目指す立花屋薬局の前に。ありました。道標です。...