1985年選手権、初戦の2回戦で甲西(滋賀)に5―7で敗れた県岐阜商。主将としてチームをまとめ、本塁打も放ったが「悔しさしかない」と振り返る朝日大の藤田明宏監督(56)にとって、指導者人生全ての原点だった。岐阜城北から母校県岐阜商監督として岐阜県の高校野球史を変えた名将に、この一戦に込められた思い、高校野球について聞いた。

―県岐阜商に入学した理由は。
藤田 小学4年から野球を始めたが、1978年、5年の時に地区の先輩の佐伯岳人さん(当時2年)がいる県岐阜商の甲子園での試合を一人で応援バスに乗って見に行った。ベスト8までいく初戦の京都商戦が生で見た初めての甲子園だったが、あの熱気と感動は小学生だった自分にとって十分すぎるほど強烈な刺激だった。
その後の試合も翌年の佐伯さんがエースの年も全部ではないが、甲子園で試合を生で見て、自分もあの舞台に立つことが目標になった。それが高校野球との出会いだった。

―県岐阜商では。
藤田 同級生は最初60人くらいいて、うまいやつ、足の速いやつとかいっぱいいて、その中でレギュラーになるのは大変だと思った。幸い、入学直後からAチームに入れてもらった。小学校は外野で中学ではキャッチャーだったが、高校ではピッチャー以外のポジションは全部やった。
短距離走は得意だったが長距離走は苦手で、試合を投げ切るスタミナがなく、ピッチャーは自分で無理だと思った。Bチームは河川敷を延々と走らされたが、自分はその経験がなかった。もし、すぐにAチームではなかったら、長距離走が嫌で、やめていたかもしれない。
―公式戦にも出場した。
藤田 1年の秋からベンチ入りして、2年の春にチーム編成上の戦略からか、2年が先発し、自分もキャッチャーで出た。夏前の6月に、紅白戦でファーストをやれと言われ守っていたら、ランナーで、この夏、岐阜大会決勝史上初のサヨナラ本塁打を打つ先輩の清水孝洋さんと接触し、肩を脱臼した。すごく痛くて病院に運ばれ、全治2、3カ月と言われたが、驚異の回復力で1カ月ほどで復帰できた。それでも、すでにメンバー発表されていたので、ベンチ入りできずに、甲子園はスタンドから応援し、悔しい思いをした。
その経験から、指導者になってから選手のけがには細心のケアをした。けがを隠す選手も多いが、早期に適切な治療を受けさせるように気を配った。
―新チームでキャプテンに。
藤田 キャプテンはタイプ的に桂川昇(中日通訳)か鹿野浩史(岐阜各務野監督)、もしくは前チームから試合に出てた前原博之(元中日など)らのうち誰かとみんなが思っていた。でも、小川信幸先生にみんなの前でキャプテンだと告げられ、自分はもちろん全員が「えっー」ってなった。
後に大学時代に教育実習で県岐阜商に来た時、高校時代に教頭だった加藤茂先生が校長になっていて、小川先生も高校時代にいろんなポジションを経験したことを聞いた。いろいろな立場が理解でき、主将や指導者として役立つと言われ、そういう考え方もあると知った。
―3年の夏はキャッチャー。
藤田 2年の秋に学校創立80周年で桑田真澄、清原和博のPL学園(大阪)と招待試合をした。桑田に完封されて0―15で敗れた。その時はレフトを守っていて、頭の上を桑田のホームランが越えていった。最強のPLと試合ができていい思い出だったが、...