1982年選手権で3年ぶりに出場した県岐阜商の4番、遊撃手は、元土岐商監督で、現在、朝日大コーチの工藤昌義さん(60)。この高校3年の夏から工藤さんが自らに課した〝宿題〟への挑戦が始まる。その宿題とは一体何か、高校野球とは―。岐阜県を代表する名将の工藤さんに聞いた。

 2024年は、高校野球の聖地・甲子園球場が開場して100周年を迎えます。岐阜新聞デジタルで毎週木曜日に各年の感動を当時の紙面と主力選手インタビューで振り返る「甲子園100年ぎふ」を連載しています。
指導者としての原点になった1982年選手権の思い出を語る工藤昌義さん=朝日大室内練習場
 工藤昌義(くどう・まさよし) 1964年、土岐市生まれ。内野手。専修大準硬式野球部を経て、岐阜県で教員に。新任は東濃実、93年春に土岐商転任直後の夏、鍛えた東濃実の選手らが学校初の甲子園に。土岐商では2005年、10年に甲子園出場。東濃実部長を経て、23年春から朝日大講師になり、高校、大学で後輩の藤田明宏監督の野球部でコーチを務める。

 ―県岐阜商に入学した理由は。

 工藤 中学生の時の1978年夏に県岐阜商が甲子園ベスト8になり、翌年も出場した。衝撃だったのが平林辰郎監督の野球。走者が出ればノーアウトなら送りバント、ワンアウトならエンドランなどがセオリーだと思うが、常識にとらわれないバラエティーに富んだ野球をしていた。

 エンドランをノーアウトやランナー二塁で出すとか、2アウトからセーフティーバントするとか。個々のプレースタイルも個性的で見てて、すごくおもしろかったので、県岐阜商で野球がやりたいと思った。

 ところが、自分の生涯の野球の師匠であり、小中でもコーチだった父親が土岐商出身で、OB会長もしていた。父親はもちろん、小中の仲間も一緒に土岐商で野球をやるものだと思っていたので、県岐阜商へ行くことは大変だった。当時は東濃地方から県岐阜商へ行くことはあまりなかったし、OB会長の息子が土岐商に行かないなんて、父親の立場もかなりつらかったと思う。それでも説得して、県岐阜商に入学した。

朝日大コーチとして後輩の藤田明宏監督(右)とともに選手らにノックする工藤昌義さん=朝日大

 ―入学した県岐阜商は。

 工藤 いざ入学してみると、監督は平林さんではなく太田郁夫先生だった。さらに1年の秋から諏訪俊彦先生、3年の夏直前から小川信幸先生と高校3年間は監督が毎夏代わった。

 入学すると新入部員は70~80人いて、入学前から入部希望者は河原を走らされるなど、きつい練習が待っていた。生活指導も団体生活も厳しく次々に仲間がやめ、最後まで我慢して頑張った選手が試合に出られるという時代だった。

 ―その中で頭角を現した。

 工藤 中学時代にエースとして県で優勝し、コントロールには自信があったが、同級生に2年生からエースになる江崎昌規がいた。江崎は体はでかいわ、球は速いわで、練習試合で2試合完投するような選手だった。スタミナもあったが、うまくペース配分できる投球術もあった。

 これは無理だと思ったし、生意気ながら2年生からレギュラーになるのが目標だったので、野手に専念した。おかげで投手の江崎、ショートの自分はじめセンターラインは2年からレギュラーだった。

 ―3年の夏の岐阜大会は。

 工藤 春の県大会は2回戦で負けたのでシードではなかった。3回戦でシード校だった土岐商に当たるが、大苦戦した。相手は中学までの仲間ばかりで、バッティングマシンに「打倒工藤」と張り紙をして練習していたらしい。父親はどちらの応援席にも行くことができず、真ん中のバックネット裏にいたらしい。...