1986年、3年連続出場となった選手権で名門7年ぶりの甲子園勝利を遂げた県岐阜商。出場は1打席の1球だけだったが、副主将としてチームを引っ張り、指導者となる原点となった岐阜城北の秋田和哉監督(56)。監督として甲子園100年の今年、市岐阜商の2度と合わせて計3度目となる甲子園にチームを導いた。岐阜県が誇る名将に甲子園への思いなどを聞いた。
2024年は、高校野球の聖地・甲子園球場が開場して100周年を迎えます。岐阜新聞デジタルで毎週木曜日に各年の感動を当時の紙面と主力選手インタビューで振り返る「甲子園100年ぎふ」を連載しています。
秋田和哉(あきた・かずや) 1968年、岐阜市生まれ。内野手、捕手。名城大に進み、1年からベンチ入りし、3年からレギュラー、4年時に主将も務めた。教員になり、母校の県岐阜商副部長、中濃(現関有知)監督を経て、1999年に市岐阜商へ転任。2003年と08年に甲子園出場し、常に県上位の強豪校を築く。20年から岐阜城北監督、今夏、甲子園出場を果たした。
―2年の夏は。
秋田 夏の岐阜大会はセカンドでベンチ入りし、試合に出ていたが、当時のベンチ入りは県大会17人、甲子園15人。自分含め2年の2人が外された。甲子園練習で入るよう言われたが、生意気だったんでしょうね。「来年来ます。入りません」と拒否し、スタンドで練習を見学した。
自分たちの代になり、背番号3で副主将だったが、試合にはあまり出られず、ランナーコーチとしてチームを支えた。...