横矢折れになっている本丸跡の石垣。端には模擬櫓(やぐら)がある=美濃市、小倉公園 

 美濃市の国道156号沿い、小倉山南麓にある小倉公園は市民憩いの場。駐車場に壮大な石垣があり、来訪者を出迎える。ここには、かつて小倉山城があった。信長、秀吉、家康に仕えて戦国期を生き抜き、飛騨高山藩初代藩主となった金森長近が江戸時代初期、“ついのすみか”として築いた隠居城館だ。

記者独断の5段階評価

難攻不落度

「自然の地形を生かした天然の防御機能」


遺構の残存度

「公園として大改変されており、残るのは石垣と竪堀のみ」


見晴らし

「山頂の展望台から長良川などの雄大な風景を360度見渡せる」


写真映え

「石垣と模擬櫓(やぐら)が〝映え〟スポットか」


散策の気軽さ

「現在は公園。山頂の展望台まで5分ほど」


山頂の展望台から望む長良川。北側は絶壁で天然の防御機能を有していた=同

 長近は、関ケ原の戦いの功績によって美濃国の上有知など2万石の加増を受け、城とともに新たな城下町を造った。江戸期の城絵図には、階段状の曲輪(くるわ)を囲うように複数の石垣が描かれている。山の麓に本丸、二の丸、三の丸があったが、山頂に天守はなかったとみられる。

 

 金森家の上有知藩支配はわずか10年ほどで終わり、廃城になった。その後は尾張藩の代官所が城内に置かれ、幕末まで活用されたという。明治期に公園へと大規模改変され、本丸跡は広場、二の丸跡は駐車場、三の丸跡は市図書館になっている。

 

 城があったことを伝える数少ない遺構の一つが、駐車場から見える高さ約5メートルの本丸跡の石垣。「横矢折れ」になっており、防御機能の名残をとどめる。さらに駐車場東の「動物広場」がある先の斜面には竪堀の痕跡も。大部分は埋もれてしまっており、確認できるのは幅約4メートル、深さ約2メートル。山の西側500メートルほどの場所(八幡神社の東の辺り)に「総門」という地名が残り、そこからこの竪堀までが城郭だったと考えられている。

山頂に建つ展望台は遠くから見ると天守閣にも見える

 公園の散策道を5~10分登るとすぐに頂上。現在は天守閣風の「展望台」が立ち、標高約150メートルからは360度見渡せる。北側は絶壁で、真下に長良川。長近は、河畔に川湊(みなと)を新設し、南側に城下町を整備した。高山や越前大野(福井県)で城下町を築いてきた長近の“最期の町づくり”だった。小倉山城の廃城後も町人の町として栄えた「美濃町」は、国重要伝統的建造物群保存地区「うだつの上がる町並み」として、現代に残されている。

【攻略の私点】地形を生かした防御機能

 「平山城」として分類される小倉山城について、美濃市文化財保護審議委員会の古田憲司会長(75)に聞いた。

 背面の北西側は長良川と急峻(きゅうしゅん)な岩壁。正面の南東側には当時は長之瀬川が流れており、天然の堀の役割を果たしていた。北東は険しい鉈尾山(なたおやま)へとつながり、今は清泰寺のある西の小山に出丸があった。有事には金森家の本領・飛騨への侵入を食い止めるため、地形を生かした防御機能を備えていた。

国重要伝統的建造物群保存地区に選定されている現在の「うだつの上がる町並み」

 城は1606年ごろに完成したと伝わるが、金森長近は08年に隠居先の京都で亡くなっており、完成した姿を見ることができたのかは分からない。

 長近は、城だけでなく城下町と上有知湊を築いた。城下町は二つの大通りを四つの小道がつなぐ「目の字型」。六つの町内が形成され「六斎市」でにぎわった。湊は飛騨方面への物資運搬の玄関口にしようとした。経済の繁栄に重点を置いていた長近の戦略が思い浮かぶ。近世大名の典型的な城下町であった。11年、実子の長光が没して上有知金森藩は改易となり、城下町としての発展が閉ざされた。それが結果的に、江戸時代初めの城下町を見ることのできる絶好の場所として残ることにつながった。