太田郁夫さんインタビューの最終回は、教員退職後、母校県岐阜商でコーチをし、ソフトバンクにドラフト1位で送り出した高橋純平投手についてや、岐阜県高校野球に望むこと、提言などについて聞いた。(岐阜新聞デジタル独自記事です)
太田郁夫(おおた・いくお) 1953年、揖斐郡揖斐川町生まれ。県岐阜商時代は投手、3年時はマネジャー。チームは春夏甲子園に出場し、夏ベスト8。愛知大に進み、投手として活躍。卒業後、77年4月、母校県岐阜商で定時制の教員となり、野球部副部長。翌78年から全日制教員。80年に監督。90年、岐阜三田(現岐阜城北)に異動し、監督就任。98年に同高を初の甲子園に導き、翌年秋に教え子の藤田明宏監督に引き継ぎ、部長に就任。その後、市岐阜商、山県で部長を務め、2014年3月に退職。母校の県岐阜商でコーチを務め、高橋純平(元ソフトバンク)を育てる。24年まで同校OB委員長を務め、2年先輩の鍛治舎巧さんを監督に招聘するなど、母校野球部再建に尽力した。
―2014年3月に教員を退職された後、母校のコーチとして高橋純平(元ソフトバンク)を指導しましたが、どういう指導をされましたか。
太田 高橋は2年の夏に準決勝で大垣日大に負けたが、そんな選手がいることは全く知らなかった。藤田明宏監督から監督を引き継いだ小川信和監督から「見てもらえますか」と電話がかかってきた。
実際に見てみると、自信を持って投げられないことと、フォームに少しくせがあったので、僕なりに工夫したら、一気によくなって、秋の東海大会で準優勝し、センバツでベスト8になった。ひょっとしたら、そのまま埋もれていたかもしれない。
プロでは、うまくいかなかったが、メンタル的な部分が大きかったかなと思う。岐商の時もパアーンとすごい球がいく時があれば、打たれる時もあった。プロ選手になってうまくいかないので、どんどんへこむようになったのかなあ。
いい球がいかないと人に頼ったり、投げ方が悪いとか、いろいろなことを思ったりするのが普通。その時に誰かコーチがうまくはまればいいのだけど。チームの上層部の方針で「今はかまうなよ」という指示が出ている時でも、コーチがよくしたいと思って手を出して、消えていく選手はプロでもよくあると思う。
高橋の場合、最後の戦力外になる直前でもブルペンを見てると、実にいい球を投げていた。ところが一つうまくいかなくなると途端に思うようにできなくなって、...









