濃尾平野の北端部、険しい山々が連なる本巣市の権現山一帯には、近接して四つの城跡が残る。その西端にある山口城は、茶人で知られる戦国武将・古田織部が城主だったと伝わる地。さらに歴史は古く、大河ドラマ「鎌倉殿の13人」にも登場する梶原景時が、鎌倉初期に居城したと記した史料も残る。室町末期には、斎藤道三の「国盗(と)り」の波にのまれた。
難攻不落度
「急斜面の地形。接近して四つの城が連なる」
遺構の残存度
「主郭を囲む帯曲輪の痕跡。法林寺城跡との境には堀切も残る」
見晴らし
「途中の展望台や山頂からは濃尾平野を一望できる」
写真映え
「撮影ポイントは山頂からの眺望か」
散策の気軽さ
「登山道は整備されているがかなりの急勾配。やや健脚向け」
現在は「文殊の森公園」管理内で、登山道が整備されている。ただ、かなりの急勾配をほぼ一直線に登るため、息も絶え絶え。四季の展望台、出丸のような位置付けの「中の城跡」を越えて、足が悲鳴を上げる頃、山頂の主郭跡へたどり着いた。
削平された主郭跡には虎口の形跡。一段低い場所をぐるりと帯曲輪(おびぐるわ)が囲んでいる。南側はどこまでも濃尾平野が広がり、視界を根尾川が貫く。金華山や岐阜城、岐阜市街地の高層ビルも目に入る。北や東に目を向けると深い山々。平野から山地へと変わる境界に立地していることを実感する。
北東に続く連山の各峰には、法林寺城跡、祐向山(いこうやま)城跡、掛洞城跡。山口城跡から三つの城へと登山道は続いているが、法林寺城跡から先は同公園の管理外となっている。
四つの城跡の延長線上には、目視では確認できないが、美濃の守護土岐氏の拠点だった大桑(おおが)城跡(山県市)がある。四つの城は、南西からの敵に対して、まるで大桑を守るように位置していた。道三による大桑攻めの際、土岐氏の勢力下だった山口城は、大桑城と命運を共にして焼け落ちたという。
一方、祐向山城も歴史ファンの間では知られた存在。1564年、竹中半兵衛らによって稲葉山城を追われた道三の孫、斎藤龍興が逃げ込んだのが祐向山城。戦国への転換期、この一帯はまさに美濃の盛衰の岐路に幾度も直面した地だった。
標高約345メートルの権現山に築かれた山口城について、本巣市文化財保護審議会委員の杉山新次郎さん(67)に解説してもらった。
金華山より標高が高く、山頂の主郭跡からは濃尾平野を俯瞰(ふかん)して見ることができる。戦となれば敵の動きを把握できただろう。眼下には根尾川が流れ、脇には根尾から越前へと抜ける街道が通る。水利、交通、軍事を押さえることができる絶好の要地だ。
急斜面の地形のため守りやすい上、連なる峰々に四つの城があったことは防御上の強みだったはず。ただ、井戸の跡は、四つの中で山口城内に一つしか確認されていない。長期戦になると持ちこたえるのは難しいだろう。生活の痕跡は見つかっておらず、麓には山口城主居館跡が残ることからも、有事に兵が詰めるような「戦のための城」だったのではないだろうか。
山口城と法林寺城の境界には堀切(ほりきり)も残る。文殊の森公園駐車場から周遊ルートもあるので、余力があれば足を延ばしてみてほしい。