削平された山口城の主郭跡には帯曲輪の痕跡も残る。右奥に続く各峰に法林寺城、祐向山城、掛洞城があった=本巣市(いずれも小型無人機より)

 濃尾平野の北端部、険しい山々が連なる本巣市の権現山一帯には、近接して四つの城跡が残る。その西端にある山口城は、茶人で知られる戦国武将・古田織部が城主だったと伝わる地。さらに歴史は古く、大河ドラマ「鎌倉殿の13人」にも登場する梶原景時が、鎌倉初期に居城したと記した史料も残る。室町末期には、斎藤道三の「国盗(と)り」の波にのまれた。

記者独断の5段階評価

難攻不落度

「急斜面の地形。接近して四つの城が連なる」


遺構の残存度

「主郭を囲む帯曲輪の痕跡。法林寺城跡との境には堀切も残る」


見晴らし

「途中の展望台や山頂からは濃尾平野を一望できる」


写真映え

「撮影ポイントは山頂からの眺望か」


散策の気軽さ

「登山道は整備されているがかなりの急勾配。やや健脚向け」


山口城跡へと続く登山道。大河ドラマ「鎌倉殿の13人」に登場する梶原景時も居城したことを伝える碑が立つ

 現在は「文殊の森公園」管理内で、登山道が整備されている。ただ、かなりの急勾配をほぼ一直線に登るため、息も絶え絶え。四季の展望台、出丸のような位置付けの「中の城跡」を越えて、足が悲鳴を上げる頃、山頂の主郭跡へたどり着いた。

主郭跡をぐるりと囲う帯曲輪

 削平された主郭跡には虎口の形跡。一段低い場所をぐるりと帯曲輪(おびぐるわ)が囲んでいる。南側はどこまでも濃尾平野が広がり、視界を根尾川が貫く。金華山や岐阜城、岐阜市街地の高層ビルも目に入る。北や東に目を向けると深い山々。平野から山地へと変わる境界に立地していることを実感する。

 北東に続く連山の各峰には、法林寺城跡、祐向山(いこうやま)城跡、掛洞城跡。山口城跡から三つの城へと登山道は続いているが、法林寺城跡から先は同公園の管理外となっている。

 

 四つの城跡の延長線上には、目視では確認できないが、美濃の守護土岐氏の拠点だった大桑(おおが)城跡(山県市)がある。四つの城は、南西からの敵に対して、まるで大桑を守るように位置していた。道三による大桑攻めの際、土岐氏の勢力下だった山口城は、大桑城と命運を共にして焼け落ちたという。

 一方、祐向山城も歴史ファンの間では知られた存在。1564年、竹中半兵衛らによって稲葉山城を追われた道三の孫、斎藤龍興が逃げ込んだのが祐向山城。戦国への転換期、この一帯はまさに美濃の盛衰の岐路に幾度も直面した地だった。

【攻略の私点】生活の痕跡見えず「戦のための城」

 標高約345メートルの権現山に築かれた山口城について、本巣市文化財保護審議会委員の杉山新次郎さん(67)に解説してもらった。

 金華山より標高が高く、山頂の主郭跡からは濃尾平野を俯瞰(ふかん)して見ることができる。戦となれば敵の動きを把握できただろう。眼下には根尾川が流れ、脇には根尾から越前へと抜ける街道が通る。水利、交通、軍事を押さえることができる絶好の要地だ。

眼下に広がる濃尾平野。日によっては名古屋市街地の高層ビル群や伊勢湾まで見渡せるという

 急斜面の地形のため守りやすい上、連なる峰々に四つの城があったことは防御上の強みだったはず。ただ、井戸の跡は、四つの中で山口城内に一つしか確認されていない。長期戦になると持ちこたえるのは難しいだろう。生活の痕跡は見つかっておらず、麓には山口城主居館跡が残ることからも、有事に兵が詰めるような「戦のための城」だったのではないだろうか。

 山口城と法林寺城の境界には堀切(ほりきり)も残る。文殊の森公園駐車場から周遊ルートもあるので、余力があれば足を延ばしてみてほしい。