米軍が1944年11月23日に空撮した岐阜市の広域写真に地名などを書き加えた画像。黄色い線がビルトアップ・エリア、赤い点が爆撃中心点(岐阜空襲を記録する会提供)

 太平洋戦争末期に米軍が岐阜市を空撮した広域写真が見つかった。1945年7月9~10日に市街地を焦土とした「岐阜空襲」の約7カ月前に撮影されたもので、米軍はこの写真を参考に爆撃する場所を決めたとみられる。写真を入手した「岐阜空襲を記録する会」の篠崎喜樹代表(87)は「民間人を狙う意図が明らかだ」と戦争の残虐性を指摘する。

 米国立公文書館の資料からこの空撮写真のフィルムを見つけた空襲研究家の工藤洋三さん(72)=山口県=によると、写真は44年11月23日、米軍の写真偵察機F13で撮影したもの。工藤さんは「家が一軒一軒見えるほど高精細で、空襲を受ける前の様子がよく分かり貴重。空襲前の別の時期に撮られた写真と比べると街の変化も分かり、資料的価値は高い」と分析する。

 米軍は空襲の際、建物が密集している区域「ビルトアップ・エリア」をあらかじめ特定し、効率よく焼くために焼夷(しょうい)弾を落とす際に狙うポイント「爆撃中心点」を決めた。岐阜市の場合は、岐阜駅の北側を中心とした市街地をエリアに特定し、現在の金華橋通りと徹明通りの交わる地点を爆撃中心点に定めた。空撮写真にビルトアップ・エリアや爆撃中心点を重ねるときれいに収まる。

 写真の右端には陸軍歩兵第68連隊の施設も写るが、岐阜空襲ではターゲットになっていない。篠崎代表は「市民が平和に暮らしている場所にあえて的を絞っていることが分かる。岐阜空襲が行われた当時は、非戦闘員を狙った米軍の無差別爆撃が本格化していた。日本が国家総動員法で全国民を戦争に動員していたことを利用し、米国が攻撃を正当化する口実にしたことも知ってほしい」と話す。

 岐阜市司町のみんなの森ぎふメディアコスモスで1日から始まった企画展「子どもたちに伝える平和のための資料展」(岐阜市主催)で初公開している。複数のパネルを展示し、岐阜空襲の計画と結果を検証している。11日まで。