戦国飛騨を終焉させた金森軍を唯一撃退したと伝わる向牧戸城。正面が主郭跡、右手奥には遊歩道となっている堀切が続く=高山市荘川町牧戸
記者独断の5段階評価

難攻不落度

「東西は川、城域は現状よりかなり広く、牧戸城との一体要塞説もある」


遺構の残存度

「本郭や脇郭、遊歩道になっている堀切が残るが、多くを欠損する」


見晴らし

「樹木が生い茂り、眺望はきかない」


写真映え

「本郭の展望台や遊歩道は近年の建造だが、往時はしのべる」


散策の気軽さ

「国道から数分で本郭。自然公園で周囲の散策も容易。牧戸城跡も国道から350メートル」


 1585(天正13)年8月、戦国飛騨は豊臣秀吉旗下・金森軍の圧倒的な軍事力によって終幕を迎えた。三木(みつき)氏居城は最後の松倉城に至るまで、あっけなく落ちた。ところが唯一、金森軍を撃退したと伝わる山城がある。高山市荘川町牧戸の向牧戸(むかいまきど)城だ。いったん退いた金森軍は、金森家2代目可重(ありしげ、よししげ)の妻の実家、郡上遠藤氏から援軍を得て、ようやく向牧戸城を落としたとされる。現在、主郭はあまりに手狭だが、開発によって失われた城域は広大。さらに、約20年前に城跡であることが確認された庄川対岸の牧戸城と一体の防御施設だった可能性もある。同時代史料が乏しく、“戦国飛騨最強”の山城は謎に満ちている。

 

 向牧戸城は、天正大地震で町ごと埋まった帰雲(かえりぐも)城伝説で知られる白川郷の内ケ島氏が寬正年間(1460~66年)に築き、帰雲城完成に伴う移転で家臣・川尻氏が城主となって郡上、高山方面の守りの要にした、と旧村史や高山市史は記す。向牧戸城の戦いも内ケ島家臣の尾上備前守氏綱が岩瀬橋(ダム建設で水没)で金森軍を迎え撃って追い返した、と後世の記述が多く伝えるが、城自体での戦闘については全く記述がない。落城の様子に関しては、軍記物「飛域太平記」に、忍びを使って火を放ち「城中の男女一時に焼死す」とある。

庄川をはさんだ対岸にある牧戸城跡。向牧戸城と一体化した防御施設という説がある

 学芸員で安国寺住職の堀祥岳さん(45)=高山市国府町西門前=は「遠藤記」など郡上側史料に、当主遠藤慶隆の弟・慶直の戦死の記述があることで激戦を推察。比較的近い時代の「小池・二村由緒書」や「高山照蓮寺記」から、敗退後の二段階侵攻説を指摘する。

“幻の城”牧戸城跡にくっきりと残る堀跡。左が主郭跡

 現状の主郭は、わずか20メートル四方、周囲に腰郭があり、遊歩道となっている堀切が認められるがあまりに小規模。だが、実際はもっと広いとする考え方がある。城域は国道開発などで削られ、城東側の馬場跡は観光施設建設で埋め立てられ、西側に広がる平場は屋敷跡で、北は庄川と御手洗川が合流する地点までだったとも。

昭和末に主郭下に移設された向牧戸城主・川尻家の墓

 さらに牧戸城の存在。向牧戸城よりもやや標高が高く、敵を見下ろせる位置にある。主郭と二つの従属郭を持つ典型的な山城だが、2次史料も含めて一切の記述がない“幻の城”。金森氏による建造説もあるが、内ケ島の城だとすれば向牧戸城と一体の強固な防御施設となる。戦国飛騨を終焉(しゅうえん)させた戦いの中で最大の激戦に思いをはせて、両城跡を巡れば、心は躍る。

 
【攻略の私点】屈強な防御拠点、黄金伝説のロマンも

 “戦国飛騨最強”の山城の謎解きや魅力を荘川歴史を考える会会長の寺田俊明さん(67)に聞いた。

 向牧戸城は東の庄川、西の御手洗川が合流する地点にあった。東西ともほぼ垂直な崖を登らないと城にたどり着けず、北側は川の合流地点のため、川伝いに攻めるのは極めて困難と言える。唯一攻める手立ては正面の南側だが、防御度は極めて高い。

城の西側にあったと考えられている向牧戸城屋敷跡

 現在は樹木が生い茂るが、主郭からは南東の高山方面や郡上街道の入り口となる新渕、北西の内ケ島の拠点である白川郷が一望できる絶好の位置にある。

 牧戸城は、寺ケ洞の地名が残るように、地元では長く寺の跡だと考えられていて、山城の跡だと分かった時は驚いた。白川街道は(江戸期に移ったが)戦国時代はここを通っていたと考えられる。私としては向牧戸城と一体となった屈強な防御拠点だったと考えたい。

 一帯は旧金山がいくつもあり、黄金伝説のロマンもあふれる。向牧戸城は現在、自然公園となっているので、自然を満喫しながら散策を楽しんでもらいたい。

公園化され、遊歩道や石垣が整備された向牧戸城跡。左手が登り口