曲輪の発掘調査で庭園とされる遺構が見つかったエリア=郡上市大和町、篠脇城跡
記者独断の5段階評価

難攻不落度

「32本の畝状竪堀群から敵を狙い撃つ」


遺構の残存度

「畝状竪堀群や切岸など山城らしさが残る」


見晴らし

「山頂の曲輪から景観は見えない」


写真映え

「連続する畝状竪堀群のスケール感は写真には収まらない!」


散策の気軽さ

「つづら折りの登山道を20分ほど。やや勾配がきつい」


 岐阜県郡上市大和町は、和歌の名門・東(とう)氏ゆかりの地。9代目の常縁(つねより)は「古今伝授の祖」として知られている。一族が鎌倉末~室町期に本拠とした篠脇城は、標高約485メートルの山頂曲輪(くるわ)に庭園を備えた”みやびな山城”だった。一方で、山肌には戦を意識した強固な防御網の痕跡も残されている。

 

 登山口は、野外博物館「古今伝授の里フィールドミュージアム」の一角、東氏館跡庭園(国名勝)の奥にある。つづら折りの登山道を20分ほど登ると、眼下には巨大な竪堀(たてぼり)。先へ進むと、深さ2~3メートルの竪堀が連続してうがたれている様子が見て取れる。「畝状(うねじょう)竪堀群」だ。放射状に32本が配備され、その上には主郭部となる3段の曲輪が築かれている。

張り巡らされた畝状竪堀群。曲輪から見下ろすと残った山肌が畝のように盛り上がっていることが分かる

 戦に関して、歌人の城ならではのエピソードが残されている。8代目・氏数が城主だった1468年、美濃守護代の斎藤妙椿の急襲に遭い、占拠された。史書「鎌倉大草紙(おおぞうし)」によると、関東でその知らせを聞いた弟の常縁が嘆きの一首。

 あるがうちにかかる世をしも見たりけり人の昔のなおも恋しき

 亡き父の在世中を懐かしみつつ、生きて見る落城の悲しさを詠んだこの歌に感銘を受けた妙椿は「歌を詠んで送ってくれたら領地を返す」と宣言。二人の間で和歌の贈答が行われたのち、東氏は戦わずして城と領地を奪還したという。

かつて東氏のみやびな空間だったとみられる山頂の曲輪

 2020、21年度の発掘調査では、最上部の曲輪から庭園とみられる痕跡が見つかった。現在、シートに覆われ立ち入り禁止となっているが、市教育委員会担当者の立ち会いの下、特別に見せてもらうと、日本庭園の景石のような大きな石が目に留まった。くぼ地も確認されており、池があったことをうかがわせる。ほかに、建物の礎石とみられる川原石や、天目茶わんなどの陶片も出土している。

 山上の館で茶会が催され、庭を眺めながら和歌を詠み合う―。山城らしからぬ優雅な暮らしが目に浮かんだ。

【攻略の私点】文化人の城、「防御網」見応え抜群

 1221年の承久の乱の功績によって郡上を加領された東氏。4代目から居城とした篠脇城について、郡上市教育委員会社会教育課の今津和也さん(34)に解説してもらった。

 大きな特徴は、放射状に張り巡らされた30本余の畝状竪堀群。その形状から地元では「臼(うす)の目掘(めぼり)」とも呼ばれている。1540年代に越前の朝倉氏の襲来を受けた際には、これらの竪堀から丸太や石を落として撃退したとも伝わる。

国名勝の東氏館跡庭園(手前)から望む篠脇山の山頂一帯に篠脇城があった

 城の背面となる南側は、二重の堀切を設けて尾根を遮断。竪堀群で守られた曲輪は、絶壁の切岸(きりぎし)になっており、攻め込むのは簡単ではないだろう。山肌に残されたこれらの防御網の痕跡は、たいへん見応えがあるので、ぜひ現地で見てもらいたい。

 2カ年の市の発掘調査で、最上部の曲輪からは、虎口(こぐち)とみられる石垣や、庭園と推測される遺構などが見つかった。茶器の破片なども出土し、山上でみやびな生活が営まれていたことが分かってきた。東氏らしい「文化人の城」としての魅力を兼ね備えている。