連載「岐阜大空襲」第3回「城が燃える 大垣市(上)」の記事(1972年7月11日付・岐阜日日新聞)

 1945年8月15日の太平洋戦争の終戦から、今年で77年。岐阜県内も主要都市が空爆を受け、岐阜市では同年7月9日の空襲でまちが焼け野原になった。大垣市でも、同年7月29日の空襲で国宝大垣城が焼け落ちた。

 50年前の1972年7月の本紙(当時は岐阜日日新聞)に掲載された連載「岐阜大空襲」(全4回)。岐阜空襲と大垣空襲を振り返る連載には、今なら100歳を超える人、大人になってから空襲を体験した人の貴重な証言が記録されている。

 当時の記事を再掲する岐阜新聞アーカイブ。前編「柳ケ瀬炎上 岐阜市(上)」に続いて、後編は「城が燃える 大垣市(上)」を再掲する。

 警防団長が団員を集め、焼け落ちる国宝大垣城に最敬礼して見届けた話は、後世に語り継ぐ価値がある。以下は、記事の全文だ。

 (※漢数字は洋数字に。一部、平仮名は漢字に。脱字は補いました。数字は現在の年齢計算を加えた以外は掲載当時のまま)


後編「城が燃える 大垣城(上)」

1972年7月11日付・岐阜日日新聞

 〝水都〟大垣市が戦火を免れることは、もはやあり得なかった。今ある工業都市の姿は、昭和20年のその年の姿でもあった。多くの工場は、全て軍需工場に切り替えられ、それが米軍機の目標となることは明らかだった。

 そのため、大垣市は県下で最初の空襲被災地(20年3月2日)となり、県下で最多空襲被災地(4回※編注…原文まま)として受難の道を歩んだ。

 この都市が、壊滅的な打撃を受けたのは、20年7月29日午前0時半ごろから同3時半ごろにわたる空襲だった。市街地の大半は焼け落ち、50人の死者が出た。市のシンボルだった国宝大垣城も、たけり狂うような猛火に包まれ、明け方には跡かたもなく焼け落ちた。

 大垣市が廃墟と化す2日前、市の空に紙片が舞った。米軍機1機からまき散らされたもので、それには「近日お邪魔する。爆弾には目がないから」と〝無差別攻撃〟が予告されていた。

 7月28日深夜、B29の大編隊が大垣市上空を通過して愛知県一宮市を襲った。通過に気を許していたのもつかの間、引き返した米軍機は市の南と北から全市を挟み込むように、焼夷弾を投下した。市街地は、たちまち火の海に包まれた。大垣署と国鉄大垣駅の本屋(ほんおく)を残して、公共建物も全滅した。

 全市1万1297戸のうちの4900戸、5万6470人の人口のうち約3万人が被災し、2万発以上の焼夷弾が落とされた。

 岐阜市に比べ、死者(50人)が少なかったのは、市民の多くが岐阜市の体験から早めに疎開したり、避難したりしていたため―といわれる。〝火たたき〟や家ごとの防空壕の無意味さを知らされた後だった。

 「大垣城が燃え出した」と聞いた時、当時、市の警防団長をしていた三輪広吉さん(76)=市内郭町、食料品店経営、※編注…現在は126歳になる計算=は、市の警防団本部で、頭の血がスーッと引くのを覚えた。この城だけは―と決心していた。名古屋の警防団が大垣市へやってきた時(先に焼け野原となった名古屋の消防車が、大垣市へ配備されてきた)〝お前ら、名古屋城を守れなかったじゃないか〟とタンカを切ったことがあったからだ。

 ありとあらゆる窓から煙と火を吹く三層四階の白い城は、例えようもなく壮烈だった。手近にいた団員を集め、城へ向かって「最敬礼」をさせた。申し訳ない―の一心だった。

 その大垣城が〝焼け落ちる瞬間〟を見た市民は、ほとんどいない。それを見たひとり、市内郭町1、料理店「魚吉」のおかみさん桑原年さん(67)=※編注…現在は117歳になる計算=は、娘さんひとりを連れて城の近くの大木の下に避難していた。あたりには、誰もいなかった。四方を火に包まれていた。

 ガラガラッと屋根瓦の落ちる音とともに、城は眼前から消えた。

 「あの城の落ちる時の気持ちは、どうも口では、言い表せない。火の粉が降るのが、夜空に雪のように見えたのを覚えている」

 そのころ、桑原さんの家も、もちろん灰になっていた。

 終戦前年の19年12月25日。大垣市の上空にB29、1機が姿を見せたのが、同市の空襲の前触れだった。「あれは市の航空写真を撮りに来たのだ」と専らのうわさだった。人口5万6千余人の大垣の町が、いよいよ緊張した。官庁関係では重要書類を保管し、市民は非常防空体制に入った。

 県下初の空襲である焼夷弾十数発の投下があったのは、20年3月2日。多芸島町の水田地帯に落ち、人畜や家屋に被害はなかった。

 7月13日未明、愛知県方面から侵入した米軍機1編隊が、市を襲った。大垣市北部から静里町に及ぶ2キロの間で約百戸が焼失、即死者4人、重軽傷者約20人を数えた。焼夷弾の洗礼だった。

 20人の死者が出たのは7月24日の1トン「爆弾」攻撃。朝10時ごろ、大垣城北の高砂町地内に落下した。木造2階建ての農業会の建物は吹っ飛び、水門川の堤防がえぐり取られた。農業会の職員らは、全員犠牲者となった。空襲警報が解除された直後、かなりの高度から襲ったB29、1機が落としたただ1発のために―。その1発で20戸の家屋が全壊、百戸近くが半壊、重軽傷者は百数十人に達した。えぐり取られた堤防の石積みは、戦後修理されたが、吹っ飛んだ部分だけが石も新しく積み方も違うのが分かる。石積みは今、何も語らない。