以前、このコーナーで紹介した大垣市禾森(のぎのもり)町に隣接し、大垣市民病院が立地しています。

 この地名は、さまざまな変遷をたどってきました。江戸期に南ケ輪村(みなみがわむら)から始まり、南川(みなみのかわ)、南輪(みなみわ)、南顔(みなみのかお)と当て字を次々と変えたそうです。「南頬村」として落ち着いたのは1692(元禄5)年。南頬地域の辺りにあったとされる高橋郷の「南側」であることや、大垣城の南側の堀川、すなわち「南の川」があったことが由来だとみられています。

 では、なぜ「頬」なのでしょうか。大垣市地名研究会著「水都大垣の地名」は、ロマンある説を紹介しています。京都では室町時代まで四方を南頬(みなみづら)、北頬(きたづら)などと呼ぶ生活習慣があり、その影響が大垣にもあったのでは、というものです。なかなか雅(みやび)ですね。

(『角川日本地名大辞典』などを参照)

【答え】みなみのかわちょう