難攻不落度
急峻(きゅうしゅん)な地形を生かして竪堀や堀切を配備
遺構の残存度
段々に連なる曲輪(くるわ)群や竪堀、石垣の痕跡が残る
見晴らし
木々の隙間から濃尾平野や金華山を望む
写真映え
点在する遺構にレンズを向ける
散策の気楽さ
整備された登山道や案内看板などはない
"岐阜のマチュピチュ"ともうたわれ、天空の茶畑が広がる揖斐郡揖斐川町の春日地域。渓谷沿いの山の中腹にひっそりと残る城跡。中世の「守護の城」小島(おじま)城だ。
尾根に沿ってひな壇状に約90の曲輪を備えた大規模な山城は、室町初期に美濃の守護土岐頼康が居城として整備。土岐氏の内紛に絡んで1390年、室町幕府軍から攻められ落城した。
現在、整備された散策道は一部しかなく、ルート案内の看板もない。今回は揖斐川歴史民俗資料館などの専門家の案内に従って入山した。
「小島城跡 東山公園」という看板から山中へ進むと、城郭西端の斜面を巨大な竪堀(たてぼり)が貫く。中腹の曲輪跡に出ると、尾根を削平してできた特徴的なひな壇状の曲輪の名残が目に入る。山道を登っていくと、木々の隙間から濃尾平野を眺望でき、遠くには金華山のシルエットも。上部の曲輪跡には土塁や石垣、切岸の痕跡も残る。
30分ほどで最高所、標高372メートルの平場に到着。城の背面は小島山の尾根が続いており、上部からの侵入を阻止するための深い堀切(ほりきり)が尾根と城郭を分断している。
小島地域には、南北朝の内乱期、北朝の後光厳(ごこうごん)天皇が頼康を頼って逃行し、一時的に仮の御所「頓宮(とんぐう)」が置かれた。その正確な場所は判明しておらず、同時期に整備された小島城周辺は候補地の一つ。同資料館では28日まで、小島頓宮など中世揖斐の歴史を紹介する特別企画展を開催中。展示品の「小島城・遺構配置模型」を見ると、美濃の中心的存在として栄華を誇ったであろう巨大山城のスケールを感じた。
室町初期の「守護の城」小島城について、旧春日村教育委員会で城跡を調査した小学校教諭林芳樹さん(58)に、構造や機能などを解説してもらった。
古くから近江方面へ抜ける間道があり、濃尾平野から金華山まで見渡せる山地に立地する天然の要害で、遺構が約6万平方メートルに展開する大規模な山城だ。
東側は断崖絶壁、西側には巨大な竪堀を備え、正面となる南側は桝形虎口(ますがたこぐち)と、連続する曲輪群が敵の行く手を阻む。背後の北側は、堀切で尾根を切断するなど高い防御機能を誇る。ただ、山の中腹にあることから、攻めるならやはり「背後の尾根上部から」という選択肢が浮かぶ。
桝形虎口などの構造や出土品などから、戦国期にも使われた形跡をうかがわせるものの、戦国以降の文献には城の名前は全く登場しない。城の規模からは有力な人物が治めていたことが推察されるが、城主に関する伝承もないのは不可解。意図的に歴史から消されたとすると、明智光秀の家臣で、西美濃にゆかりがある斎藤利三が思い浮かぶ。