森部の戦いで活躍した前田利家にちなんで2002年に植えられた「出世の松」。森部の戦いを伝えるシンボルになっている=安八郡安八町森部
古戦場碑や供養塔が立つ薬師堂。一角には信長が鎧をかけたと伝わる松があったという=安八郡安八町森部
薬師堂に立つ古戦場の碑と説明板。織田信長が鎧をかけたと伝わる松はこの裏手にあったという
田んぼが広がる安八町の森部地区

 岐阜県安八郡安八町森部、長良川沿いの薬師堂には「織田斎藤両軍古戦場」と記された碑がある。この地を舞台にした「森部の戦い」は、戦国武将として名をはせる織田信長と前田利家が“新たな一歩”を刻んだ一戦。信長は、斎藤龍興軍を破って対美濃戦初勝利を挙げ、利家は猛将の首を取って出世のきっかけをつかんだ。

 桶狭間の戦い翌年の永禄4(1561)年5月、美濃を治める斎藤義龍が急死すると、信長は清洲城(愛知県清須市)から美濃へ向けて出陣。木曽川、長良川を越えて森部に布陣した。その数約1500。対する斎藤軍は、下宿(大垣市墨俣町)から約6千の大軍で森部へと押し寄せた。

 斎藤軍の進路は湿地帯。名森村(現安八町)村史などによると、信長は自軍を三手に分けて潜ませた。足場が悪く、動きが鈍くなった斎藤軍に三方から総攻撃し、日比野清実や長井利房ら大将クラスを次々と討ち取った。織田軍に味方した森部城主河村久五郎の働きもあり、合戦戦死者はほとんど斎藤軍という大勝利。信長にとって、これが美濃で初めて勝った戦となった。

 合戦の空気を感じようと安八町の森部地区を訪れた。信長が首実検をしたと伝わる薬師堂には、古戦場碑や説明看板、合戦供養塔がある。一角には、首実検の際に信長が鎧(よろい)をかけたとされる「鎧かけの松」が昭和30年ごろまで残っていたという。

 ところで、この戦いで名を上げたのが信長の小姓だった前田利家だ。実はこの時、信長の怒りを買って追放されており、浪人の身で参戦。「首取り足立」と恐れられた美濃の荒武者・足立六兵衛を仕留めた。信長に「城一つに等しい」と言わせたほどの大手柄を挙げたことで帰参を許されたという。のちに「槍(やり)の又左」と呼ばれた利家の武勇伝の一つだったことだろう。

 薬師堂の近くには2002年、NHK大河ドラマ「利家とまつ」の放送を記念して2本の松が植えられた。「出世の松」と名付けられ、合戦の記憶を伝えるシンボルとなっている。

【勝利の分岐点】斎藤軍に油断あったか

 「森部の戦い」で織田軍は、斎藤軍の4分の1しか兵力がなかったにもかかわらず、なぜ勝利を収めることができたのか。元ハートピア安八歴史民俗資料館学芸係長で、安八町在住の学芸員高橋昭裕さんに聞いた。

 斎藤軍は、足を取られるような沼地を進軍している。6千という大軍で、楽に勝てるだろうという油断があったのではないか。書物によると、この戦いには郡上から遠藤氏も動員されており、寄せ集めの集団だった可能性も考えられる。

 信長は、前年の桶狭間の戦いで勝った勢いのまま「斎藤義龍急死による美濃の動揺」という好機を逃さぬスピード感で攻めた。合戦で(義龍の後を継いだ)龍興が稲葉山城にいた一方、信長は最前線で「美濃を奪うぞ」という必死さを示した。両軍には組織性や士気の差もあっただろう。

 美濃への突破口を切り開いた信長と、加賀百万石への確かな一歩を残した利家。その後も数々の修羅場をくぐり抜ける二人の武将にとって、それぞれのターニングポイントになった戦いであることを、もっと広く知ってもらいたい。