脳神経外科医 奥村歩氏

 大リーグの大谷翔平選手が「二刀流で活躍するのに、最も大切にしている生活習慣は?」とインタビューされた際、「ぐっすりと眠ること!」と。この答えには「意外だ!」と反応した日本人は多かったのではないでしょうか。

 睡眠が、仕事や家事のパフォーマンスを高めるためにも、健康のためにも大切なことは皆さん実感されていることでしょう。しかし、大半の日本人は、睡眠をそこまでは重要視していないのではないでしょうか。

 「もの忘れ外来」には、「仕事や家事の能率が上がらない」「人と話すとき、上手に言葉が出てこない」「疲れ過ぎて頭が働かない」などを心配する方が多く来院されます。最近では、20~60代の若い受診者が、全体の半分を占めるようになってきました。認知症になるにはまだまだ早い世代。この世代の方々の、記憶力・判断力・コミュニケーション力の低下の原因の多くは「睡眠負債による脳過労」です。

 「睡眠負債」とは、いわば「睡眠の巨額な借金」のことです。睡眠負債は、単なる睡眠不足とは異なります。「心配事があって、昨晩はよく眠れなかった」などは、自覚がある睡眠不足です。そんな場合は、翌日によく寝れば大丈夫でしょう。それに対して、自覚のない毎日の1~2時間程度の睡眠不足が、ジワジワと積み重なり、心身の健康を崩してしまうのが、睡眠負債です。睡眠負債とは、私たちの生活に悪影響を及ぼし、借金地獄と同じように恐ろしいものだ、という警鐘を鳴らす意味を含めて命名されました。

 睡眠負債は脳過労を含め、万病の元となります。睡眠負債では、高血圧・糖尿病といった生活習慣病を引き起こします。それが、心臓病・脳卒中・うつ病、そして認知症のリスクを高めます。睡眠の大きな目的は「脳のメンテナンス」にあります。良い睡眠は、脳過労と認知症の予防にも有効です。以前、本連載で、熟睡中にアルツハイマー病の原因になるアミロイドβ(ベータ)が掃除されるメカニズムを説明しました。

 それなのに、日本人の睡眠は充実していません。「悪い奴ほどよく眠る」という黒澤明監督の映画が、高度成長期の古き昭和時代にヒットしました。それ以来、この言葉はまるで「ことわざ」のように日本に根付いてきました。勤勉で働き者の日本人は「よく眠る」ことに罪悪感を覚える傾向があるようです。最近のOECD(経済協力開発機構)による世界比較で「日本人の睡眠時間が世界の他の国の人たちの平均より1時間以上も短い」という、データが明らかになっています。

 皆さま、この秋は、ぐっすり寝て、スッキリした頭で、睡眠の大切さについて考えてみてはいかがでしょうか。