各務原市川島町付近の木曽川。視界の先には金華山がそびえる
木曽川と新境川の合流点付近の堤防沿いに立つ「米野の戦い跡」の標柱=羽島郡笠松町
米野地区の墓地の一角に立つ「米野の戦い」の碑=羽島郡笠松町
西軍の最前線で戦った飯沼勘平長資の墓=羽島郡岐南町
尾張側となる愛知県一宮市の展望タワー「ツインアーチ138」から美濃側を望む。当時、木曽川は現在より北側(奥)を流れていた=愛知県一宮市

 岐阜県羽島郡笠松町の米野地区。木曽川と新境川の合流点付近の堤防沿いに、戦跡を示す1本の標柱が立っている。慶長5(1600)年、天下分け目の「関ケ原の戦い」約1カ月前、東西両軍が、一帯の木曽川河畔で激闘を繰り広げた。岐阜城を巡る前哨戦「米野の戦い」だ。

 東軍は池田輝政や福島正則ら豊臣恩顧の武将が中心の先鋒(せんぽう)隊。同年7月、石田三成が徳川家康打倒へ挙兵すると、彼らは徳川方につくことを決意。家康に先駆け西進し、8月中旬に清洲(清須)城へ入った。

 

 西軍に属する岐阜城をどう攻めるか軍議。その結果、木曽川を挟んで最短ルートの米野対岸に池田ら本隊1万8千、下流の竹ケ鼻には福島ら1万6千、上流の犬山にも別隊を配置すると、同月22日早朝、川を渡って美濃へ攻め寄せた。

 西軍は、織田信長の孫で岐阜城主織田秀信率いる美濃勢。最前線の米野は、家老格の百々綱家や木造具康ら3200の兵で固めた。その後方に秀信も着陣し、二段構えで迎え撃った。

 戦いは東軍が兵力の差で圧倒。織田軍は多くの精鋭を失い、城へ敗走した。勢いに乗った東軍は翌日、岐阜城を落城させると、三成のいる大垣城方面へと戦場を移した。

 大決戦「関ケ原」の前哨戦でありながら知名度はいまひとつの「米野の戦い」の痕跡を追った。笠松町米野地区の墓地に合戦を伝える石碑が立つ。当時の木曽川は今より北側を流れており、一帯が激戦地となったとみられる。その近く、同郡岐南町には秀信配下で「岐阜四天王」と称された飯沼勘平長資の墓もある。

 説明板によると、最前線で戦った勘平は、東軍の一番槍(やり)を務めた大塚権太夫に一騎打ちを挑み、見事討ち取った。ところが、そのまま池田輝政の弟長吉との対決となり敗死した。その様子は「尾濃葉栗見聞集」や「美濃雑事記」などにも登場。さぞや勇敢な戦いぶりだったことだろう。

 笠松町無動寺の畑の中には権太夫を弔ったものと伝わる小さな石塚。それに比べて飯沼勘平の墓石は、敗軍ながらも高さ1メートルを超える立派なもの。懸命に歴史の波と戦った美濃武士をたたえる地元民の“西軍びいき”が表れている。

【勝負の分岐点】「関ケ原」は米野で決着

 東軍が圧勝した米野の戦い。「関ケ原」本戦に与えた影響などについて、NPO法人「笠松を語り継ぐ会」代表で、フリージャーナリストの高橋恒美さんに聞いた。

 徳川家康と石田三成不在だったが「関ケ原合戦はすでに米野で勝負がついていた」と言えるほど、大きな意味を持つ一戦になった。東軍は、米野の出足で相手を圧倒し、一気呵成(かせい)のまま関ケ原の本戦へ突入。がっぷり四つで西軍を寄り切った。

 家康にとって「関ケ原」は“三成憎し”の諸将たちをまとめる戦いでもあった。池田輝政や福島正則ら主力の大半が豊臣恩顧の者たちで、本当に自分に従ってくれるか少なからず不安を抱いていたはずだ。米野での彼らの活躍ぶりを見て、本戦勝利に確信を得ることができたと思う。

 一方、米野という局地戦の勝敗に関しては、三成がなぜ木曽川を防衛線とする戦略が描けなかったのか疑問だ。木曽川は古来からさまざまな合戦舞台となり、勝敗を分ける存在だった。三成は、早くから大垣に入っており、先に尾張側へ渡って川を防衛ラインとすれば大きな武器になったはず。その重要性に気付けなかったことが本戦の勝敗にも響いた。