クロコダイルの指の骨が歯に詰まった、と君は笑った。私はシャークステーキを食べながら、その様子を眺めていた。

 場所は水族館のレストラン。誰かのことを100%わかろうだなんて、幻想だ。だって君は男で、私は女で、君が食べているのはクロコダイルのコンフィーで、私が食べているのはシャークステーキだ。生まれた場所も違うし、年齢も経験も違う、価値観だって、きっといくらでも違う。でも大切なのはわかりあうことだけではないのだ。

 ウエートレスさんがやってきて、君のグラスに水を注ぐ。そのとき君はウエートレスさんに顔を上げて、ありがとうございます、と笑顔で言う。当たり前にできるべきこと。でも、皆が忘れがちな、大切なこと。そんなことを大切にしている君を、だから私も大切に水族館に誘おうと思ったのだ。

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(撮影・三品鐘)

 君といると沈黙が怖くない。それは、わかりあうことを諦めているからではない。むしろ、この静かな時間を大切にしたいのだ。だって、さっきウエートレスさんに君が笑顔でありがとうございます、と言ったとき、私の感じている世界は、ちょっとだけ私に優しくなったのだ。そして君がレストランの布ナプキンをきれいに畳んで席を立ったとき、私の世界は私に対してちょっとだけ誇り高くなったのだ。

 関係性は重要なことではないと思う。恋人、友人、夫婦。そう名付けることで、互いを束縛したり、誰かを自分のものだと勘違いしてしまうことも少なくない。君の行いを美しいと感じられること。それが今の私の幸せだ。

 会計が終わり、君の黒いコートが目の前を靡(なび)いていく。大きな水槽の前をいくつも通り過ぎる。君の口が美しいさかなの名前を読み上げる。ときおり、私の存在など忘れたように水槽に張り付いて美しいさかなを眺める。

 その後ろを歩きながら、君が大切にしていることやもので、私の背筋が伸びることの、私の世界が輝くことの、なんと誇らしいことだろうと思う。

 君よ、君が大切にしていることを、誰よりも大切にしてください。そう思うさなか、ウリクラゲがプカリと光る。君はまた嬉(うれ)しそうに笑った。


 岐阜市出身の歌人野口あや子さんによる、エッセー「身にあまるものたちへ」の連載。短歌の領域にとどまらず、音楽と融合した朗読ライブ、身体表現を試みた写真歌集の出版など多角的な活動に取り組む野口さんが、独自の感性で身辺をとらえて言葉を紡ぐ。写真家三品鐘さんの写真で、その作品世界を広げる。

 のぐち・あやこ 1987年、岐阜市生まれ。「幻桃」「未来」短歌会会員。2006年、「カシスドロップ」で第49回短歌研究新人賞。08年、岐阜市芸術文化奨励賞。10年、第1歌集「くびすじの欠片」で第54回現代歌人協会賞。作歌のほか、音楽などの他ジャンルと朗読活動もする。名古屋市在住。

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