笠松競馬永続の守り神・オグリキャップ像。ファンのパワースポットにもなっている

 騎手、調教師らの所得隠し・馬券購入問題でピンチを迎えている笠松競馬。平成の時代の2004~05年には経営不振から「速やかに廃止すべき」と迫られる大ピンチがあった。

 厩舎関係者は存続を呼び掛ける署名活動に立ち上がった。「オグリキャップを生んだ笠松の灯を消すな」とファンらも支援の輪を広げた。馬券販売は低迷し、90%以上「廃止」に傾いていたが、競馬場正門近くで長年の風雪に耐えてきたオグリキャップ像の存在感は大きかった。「笠松競馬のシンボル」であり、永続の守り神となって関係者を勇気づけてくれた。
 
 ■「存廃サバイバルレース」に参戦

 バブル経済が崩壊し、2001年以降に全国の地方競馬で吹き荒れた「廃止」の嵐。中津(大分)から始まり、新潟、三条、益田、上山、北関東3場(足利、宇都宮、高崎)がバタバタと倒れた。負の連鎖の中で、2004年9月、笠松でも経営悪化が顕著になり、地方競馬の「存廃サバイバルレース」に参戦することになった。その後も北海道の3場(北見、岩見沢、旭川)、荒尾、福山と「廃止ドミノ」。12年間に計13場が消えたが、いずれも累積赤字による経営破綻が原因だった。
 
 笠松競馬の馬券販売は1980年度の445億円をピークに、93年度から単年度赤字が続き、2003年度には174億円まで低下。58億円あった基金を取り崩してしのいできたが、翌年には底をつく見通しとなった。県の第三者機関として「笠松競馬経営問題検討委員会」が設置され、9月の中間報告では「経営は危機的状況で自立的経営は困難。速やかに廃止すべき」と物騒な言葉が投げ掛けられた。新聞の1面トップなどで「激震」が報じられ、現場の関係者を驚かせた。

 まだ赤字でもないのに廃止論が高まり、「あの時が一番苦しかった」と厩舎関係者。笠松競馬史上、最大のピンチを迎え、騎手、調教師、厩務員らは「仕事を奪われる。競馬ができなくなるかもしれない」という瀬戸際まで追い詰められていた。

安藤勝己騎手らも出席。「笠松競馬を未来につなげる集い」で存続への協力を訴えた=2004年11月

 訪れた笠松競馬場内で目に飛び込んできたのが、「◎笠松競馬は永久に不滅です」の文字。場立ち予想屋の屋根に書かれていたもので、本命を意味する「◎」の印が泣かせる。笠松を愛し、存続を願う「大口の単勝1点勝負」のようで、予想屋としての心意気が感じられた。調教師の妻たちを中心とした笠松愛馬会(後藤美千代代表)が存続を求める署名活動に力を注ぎ、「笠松競馬を未来につなげる集い」への参加をファンに呼び掛けていた。

 11月23日、全日本サラブレッドカップ(GⅢ)を中央馬ディバインシルバーで優勝し、ファンを熱狂させた安藤勝己騎手(笠松からJRAに移籍)。「未来につなげる集い」にも参加し「今の自分があるのは笠松のおかげ。存続のために後押しを」と協力を呼び掛けた。全国から駆け付けた有志たちは「存廃問題を機に笠松競馬は生まれ変わるべき」などと力を込めた。

 ■「『廃止』を最終結論としろ」と迫る委員

 11月末、最終報告をまとめた第3回検討委を取材した。経営診断専門家ら識者や県民代表からなる委員25人が出席したが、笠松存続派は全国公営競馬主催者協議会のメンバー1人だけ。次々と廃止を求める意見が述べられ、興奮した委員が最後に「はっきりと『廃止』を最終結論としろ」と迫った。県側からの丸投げを、そっくり投げ返しただけという結末。数の力でごり押しする形となり、やはり最悪の事態を覚悟させられた。

 再び「競馬事業は速やかに廃止すべき」といった最終報告が提言された。ただ、IT関連企業のライブドアが笠松競馬参入の意向を示していたほか、NAR(地方競馬全国協会)が名古屋競馬と一体化した再生案「東海競馬」構想を打ち出していた。最終報告には「民間参入と東海競馬再生案による具体案が示された場合、検討すべき」という付記事項が明記され、一条の光は見えてきた。

 厩舎関係者はこれを歓迎。ライブドアと県側との協議の進展に期待を寄せる声が相次いだ。県調騎会の山下清春会長は「民間参入の道筋が残されたことで望みがつながった。ぜひとも存続させていただきたい」と期待感を込めた。

 存続への道を懸命に切り開いたのは愛馬会、有志によるサポーターズ倶楽部、全国のオグリキャップファンたちだった。まだ赤字でもないのに廃止へと突き進んでいく「お役所競馬」には任せ切れないとばかりに、「競馬場を買ってください」という大胆なお願いで、切実な思いを全国にアピールした。赤字化は放漫経営も一因で、経営改善策が示されないまま、基金も食いつぶしていた。

梶原拓岐阜県知事とライブドアの堀江貴文社長の面談。支援の意向が示され、笠松競馬存続に光が差し込んだ=2004年11月

 ■ライブドアの堀江社長にラブコール

 参入に興味を示してくれたライブドアは結果的に「笠松競馬存続」への大きな役割を果たしたといえる。梶原拓岐阜県知事(当時)とライブドアの堀江貴文社長の面談は、存続を訴える馬主、調騎会や愛馬会の支援で実現。岐阜県東京事務所に「堀江コール」で迎えてバラの花束も贈った。梶原知事は「赤字にならなければ廃止にする必要はない。『丸投げ』でも赤字分の経営責任も背負ってもらえれば」とライブドアの参入に前向きな姿勢を示した。

 プロ野球新規参入の「仙台決戦」では楽天に敗れたライブドアだが、知名度が急上昇。赤字経営に苦しむ全国の地方競馬からは、がけっぷちでのラブコールが相次いだ。JRAの競走馬ホリエモンの馬主も務め、競馬経営に興味を持つ堀江社長。「地方競馬は情報量が少なすぎる。インターネットでの馬券販売では出走表を充実させ、ライブ映像を配信したい」と競馬ファン獲得に意欲。笠松のレベルの高さを評価し「競争力のある競馬場にできる」と黒字転換に自信を示した。

 ライブドアの提案は、存続派にとっては「速やかに廃止すべき」という流れを食い止める時間を稼ぐことができた。オグリキャップの生まれ故郷でもある北海道三石町の競走馬生産者らは、公益法人設立による経営参入に前向きな考えを示した。最終的には笠松へのライブドア参入は実現しなかったが、「IT界の風雲児」堀江社長には、現在のインターネット投票全盛時代に対する先見性があったといえる。ライブドアが参入に手を挙げてくれなかったら、笠松競馬の灯は消えていただろう。

「1年間の期限付き存続」が決まり、会見の様子を見守る笠松競馬関係者=2005年2月

 ■経営改善で、賞金・手当など7億円カット

 05年1月中旬、騎手、調教師、厩務員らによる笠松競馬存続委員会が立ち上げられ、現場の足並みがそろった。赤字を出さないための経営改善策では、年間約7億円の経費削減を迫られた。民間参入については「赤字補てんの考えがないライブドアが参入しても、存続できない」とする結論が対策委員会から出され、極めて厳しい状況に追い込まれた。県知事の交代時期でもあり、赤字化で「負の遺産」となりそうな競馬事業を、新年度に残したくなかったのかもしれない。
 
 流れは「廃止」に大きく傾いていたが、最後は現場の底力が発揮された。騎手や厩舎関係者は「自分たちには、競馬しかない」と、レース賞金・手当が大幅カットされた経営合理化案を受け入れたのだ。存続への情熱が一つになって、存廃レースでの生き残りをつかもうとしていた。当時、深夜のテレビ放送で特番が組まれ、存続を願う愛馬会のメンバーが電車内で流した涙は印象的だった。
 
 2月初め、県と笠松町、岐南町の首長による3者協議が開かれ、笠松競馬は「1年間の期限付き存続」が決まった。これは、プロ野球選手でいう単年契約であり、1年後に赤字転落なら「即廃止」となる試験的なものだった。存続委員会の岩崎幸紀代表は「知事、2町長の決断と関係者の努力のおかげ。つらいことも多いだろうが、楽しさに変える」ときっぱり。合理化案では出走頭数の縮小なども盛り込まれ、大幅な収入減を強いられた。その後も騎手や調教師らは、さらなる経費削減策に耐えながら、1年ごとに赤字を出さないことに全力を尽くし、存続の道を必死に走り続けた。

 ■今回の事件で「存廃問題」は浮上していない

 一方、今回の騎手、調教師らの所得隠し・馬券購入問題では「スピーディーな対応で『浄化』を」などと訴えてきたが、「5開催連続自粛」で、恐れていたスローな展開になってしまった。主催者は第三者委の「不適切事案検討委員会」を設置しているが、04年の「経営問題検討委」のような、存廃を含めた経営の在り方を検討する場ではない。一部の報道やファンの間で「笠松競馬、どうなっちゃうの?」と廃止を懸念する声もあるが、21世紀に入って地方競馬が廃止になったのは、累積赤字による経営難のケースだけである。今回の事件で主催者サイドに「存廃問題」は浮上していない。
 
 それでも競走馬の他場などへの流出(期間限定も含め)は既に50頭を超えており、在籍馬は470頭ほどに減ってしまった。賞金・手当を得られない騎手、調教師、厩務員らの収入は大幅に減少しており、痛みに耐えての生活は厳しさを増すばかり。救済の手を差し伸べるためにも、あとは主催者が処分発表とレース再開の決断をするだけだ。コロナ禍とともに、2カ月以上レースが開催されない緊急事態ではあるが、何とかこのピンチを乗り切って、馬券を買って応援してきてくれたファンファーストで信頼を取り戻していきたい。