難攻不落度
「切岸(きりぎし)や堀切(ほりきり)、それを結ぶ曲輪(くるわ)群。防御機能は強固で技巧的」
遺構の残存度
「堀切、曲輪跡のほか、主郭部付近や虎口に石垣も残る」
見晴らし
「周囲の城跡、名古屋のビル群、南西には岐阜城も発見!」
写真映え
「撮影ポイントは山頂付近からの風景」
散策の気楽さ
「頂上まで40分ほど。山頂付近は急勾配あり」
標高約270メートルの山頂にある加治田(かじた)城跡(加茂郡富加町)。かなたに名古屋駅前のビル群を望む。木曽川沿いの中濃東部地域は、織田信長の美濃侵攻の最前線となったエリアで、"尾張からの風"が吹き荒れた。
江戸時代に書かれた軍記物などによると、信長の動きに備え、一帯の有力者である関城(関市)の長井氏、堂洞(どうぼら)城(富加町)の岸氏、加治田城の佐藤氏は「三城の盟約」を結んだ。しかし実は、加治田城主・佐藤紀伊守忠能(ただよし)が、ひそかに信長と通じていたという。1565年、信長は犬山城から木曽川を越え、猿啄(さるばみ)城(坂祝町)を落とすと、堂洞城を攻めた。
その進軍ラインを山頂付近から眺めようと、加治田城の"裏側"に当たる北側を回り込む登山道を登った。30分ほど進むと「のろし場」と伝わる城郭跡の西端に出る。南側一帯を一望でき、遠くに名古屋のビル群、信長が落とした猿啄城跡に立っている展望台らしき影も見えた。
さらに10分ほどで、頂上の主郭部に到着。目と鼻の先、眼下の丘には堂洞城跡。信長の東美濃攻略最大の攻防戦といわれる「堂洞合戦」では、盟約を破って佐藤軍も加治田から加勢した。この時の非情な逸話が残る。寝返りに怒った堂洞城主・岸勘解由信周(かげゆのぶちか)は、岸家に嫁いでいた佐藤家の娘を、加治田城からよく見える場所で刺殺したのだ。その堂洞城は落城。佐藤紀伊守は、どんな思いで見つめたのだろうか。
主郭部には歴史を解説する看板が立つ。「城を枕に義に殉じた岸、時勢を洞察して領地を守った佐藤。対照的な先人の行動は、それぞれ価値を持って人の生き方について語りかけます」―。
富加町教育委員会 島田崇正文化財専門官
砦(とりで)の要素が強く、天守のような立派な建物や居住機能はなかったとみられる加治田城。その特徴を富加町教育委員会の島田崇正文化財専門官(47)に解説してもらった。
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総石垣の城が造られる少し前の時代の土造りの山城。小規模ながら非常に技巧的な構造で、特に城の入り口となる南東側の防御が強固となっている。複数の竪堀(たてぼり)があり、その間には扇状の帯曲輪(おびぐるわ)が何段にも張り巡らされている。侵入者は堀の中を登るしかなく、上から撃退することが容易だ。
そこを突破しても最後の関門「虎口」という防御施設がある。巨石を使った石垣で進入路をクランクさせて、敵の動きを停滞させる。正面突破することは難しいだろう。このような城を国人層(在地領主)が造れたということも戦国期の美濃の地域性を示す興味深い点ではないだろうか。
現在の登山道では、頂上の主郭部を通り越して、やや下った所に虎口や竪堀の遺構がある。頂上で満足せずに、少し足を延ばして当時の城の造りを体感してほしい。